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ベーメン民族運動

オーストリアに支配されていたベーメン(チェコ)で、1848年3月、プラハを中心に民族の独立を求める民衆が蜂起したが鎮圧された。

 ボヘミア(ベーメン、現在のチェコ)は、16世紀に神聖ローマ帝国皇帝がベーメン王を兼ねるようになってから、オーストリアの支配が続いていた。19世紀のウィーン体制の時期、ヨーロッパで自由主義と民族独立を求める運動が強まる中、ボヘミアのチェック人からも独立を求める声が起こってきた。ボヘミアのチェック人の民族的自覚の核となったのは、15世紀にカトリック教会に異を唱えたフスと、その支持者たちのローマ教皇、神聖ローマ皇帝との戦いであったフス戦争であった。

「諸国民の春」の到来

 フランスの二月革命から始まった1848年革命がオーストリアにも波及し、ウィーンでも三月革命が起こり、保守反動の中心と見なされていたメッテルニヒが失脚し、自由主義的な政府が成立したことは、オーストリア帝国に支配されていた多くの民族に一気に独立の期待を抱かせ、各地で諸国民の春といわれる独立運動が起こった。
 チェック人(チェコ人)の居住するベーメンにおいても、1848年3月にプラハで市民が結集し、封建的負担の廃止、市民的自由、チェコ語とドイツ語の平等などを要求、ウィーンのオーストリア政府もそれらを認め、仮政府が樹立された。

ベーメン内部の民族問題

 ここに難しい問題が一つあった。ベーメンにはドイツ人の居住地であるズデーテンが含まれており、またベーメンも形の上では一つの国としてドイツ連邦に加わっていた。ドイツ人国家建設をめざすフランクフルト国民議会が開催されたとき、ベーメンにも参加要請がなされたが、チェコ人の指導者パラツキーはそれを拒否し、それに対抗する意図でスラヴ民族会議を召集した。このためチェコ人とドイツ人の対立が生じた。 → パン=スラヴ主義

ベーメン蜂起の鎮圧

 折りから、プラハで急進派の学生、労働者、市民が暴動を起こすと、オーストリア政府は弾圧に転じ、プラハ司令官ヴィンディッシュグレーツ将軍はプラハを砲撃して仮政府とスラブ民族会議を解散させ、軍事支配下においた。穏健派とドイツ人はそれを歓迎した。
 プラハの蜂起は失敗に終わり、パラツキーはオーストリア帝国内での自治獲得という穏健な運動を進めようと、チェコ国民党を結成した。その後、チェコはオーストリア帝国内にあって高い工業力を持ち、経済活動では一定の自由が認められるようになるが、政治的自由は依然として手にすることはできなかった。それに飽き足りない青年層が青年チェコ党を結成し、独立をめざすことになるが、その実現は第一次世界大戦の終結を待たなければならなかった。 → チェコスロヴァキア
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