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ディズレーリ

19世紀後半のイギリスの保守党の政治家。スエズ運河買収、インド帝国成立など、帝国主義政策に転換させた。

ディズレリ
 政治家であると同時に小説家でもあった。19世紀後半、ヴィクトリア朝保守党の代表的な政治家であるが、保守党を単なる地主階級の政党ではなく、議会制度に適応した民主主義的な国民政党に脱皮させることを目指した。当時の保守党党首のピールは産業資本家の立場での保守主義であったが、ディズレーリは地主の立場での保護貿易主義をとり、穀物法廃止にも反対した。ダービー内閣では蔵相として入閣し、政治的経験を積み上げ、には保守党の立場にありながら、自由党の主張する選挙権の拡大は時代の趨勢であると判断し、1867年に第二回選挙法改正を提案して実現させた。同時期の自由党グラッドストンは好敵手であり、交互に政権を担当して二大政党制を展開したが、それは新たな選挙法で選挙権を獲得した都市労働者の大票田をどちらが獲得するか、という競争とあった。
 1868年、第1次ディズレーリ内閣を組閣したが、それはアイルランド問題で暗礁に乗り上げ、すぐに辞任して短命に終わった。その後、第1次グラッドストン自由党内閣が様々な改革を行ったが、1874年の選挙は変化を望んだ選挙民に指示され、第2次内閣を組織することとなった。
第2次ディスレーリ内閣(1874~80年):労働者の支持を得るためもあって、公衆衛生法や労働組合法など社会政策に力を入れ、この保守党の労働者よりの政策は「トーリ=デモクラシー」といわれた。しかし、ディズレーリ内閣の特質はその外交政策に現れ、1875年のスエズ運河の買収はロスチャイルド家の資本によってスエズ運河会社の株を買い占め、その営業権を得るという帝国主義政策の始まりを示すものであった。さらに1877年には、ヴィクトリア女王をインド皇帝とし、インド帝国を成立させ、第2次アフガン戦争を行ってアフガニスタンの保護国化を実行、さらに露土戦争後のベルリン会議に参加してロシアのバルカンへの南下政策を阻止し、キプロスを獲得するなど、19世紀末からの帝国主義政策につながる膨張策を推進した。
 しかし、その強硬な外交は膨張主義として自由党のグラッドストンらの批判を浴び、1880年の総選挙では敗北し、下野した。 → イギリス(7) イギリス(8)
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