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ジャガイモ飢饉

1845年~51年ごろまで、アイルランドでジャガイモ疫病のために起こった飢饉。イギリスに併合されていたアイルランドでの食糧危機のため1845年から数年のあいだに100万人~150万人が死亡、さらに多くの人がアメリカに移住してアイルランド人口が急減した。背景にはジャガイモへの過度な依存、イギリス政府の自由放任主義による無策があった。

 1845年9月から始まった、アイルランドでのジャガイモの不作による大飢饉。食糧不足は49年ごろまで続く、アイルランドはそのために貧困化が進み、多くの人がアメリカなどへの移民として移住したために急激な人口減少が起こった。また、当時イギリスに併合されていたアイルランドでのイギリスからの分離独立運動が激しくなり、1848年には青年アイルランド党の蜂起などが起こったが、運動は鎮圧された。 → 19世紀のアイルランド問題
(引用)1845年の夏、アイルランドは長雨と冷害に祟られ、それだけならまだしも、この年の8月、イングランド南部に奇妙な病害が発生した。それは三年前に北アメリカの東岸一帯を荒らしたウィルスによる立ち枯れ病の一種であった。しかもヨーロッパにはなかったこのジャガイモに取りつく菌は、9月に・・・アイルランドに上陸するや、またたく間に全土に拡がり、その被害は三年間にも及んだのであった。<波多野裕造『物語アイルランドの歴史』1994 中公新書 p.167>

アイルランドの状況

 アイルランドは17世紀以来、イギリス(イングランド)の植民地となっていたが、1801年からはイングランドに併合されており、政治及び立法上だけでなく、経済的な独立も失っていた。その頃イギリス本国は急速に工業化を進めていたが、アイルランドにはほとんどその動きは及ばず、工業は北部のベルファストに集約され、島はほぼ本国の食糧としての小麦その他の穀物を提供する穀倉地帯として位置づけられるようになった。当時、アイルランドでは200万人分の穀物と牛を生産していたが、穀物の4分の1と家畜の大半は本国への輸出用に割り当てられていた。アイルランドのオート麦と小麦のおかげてイングランドのパンの価格は抑えられ、その一方で大半のアイルランド人は本国の地主の所有する土地を借地としてジャガイモを育て、最低限の生活を強いられていた。ジャガイモはアイルランド人の生命を支える単一の作物となっていた。
 ジャガイモだけに依存するアイルランドで、天候不順による不作が起これば食糧危機に陥ることは、すでに「夏が来ない年」といわれた冷夏となった1816年に、6万5000人以上が飢えとそれから来る病気で死亡したことで判っていたが、その原因はイギリス政府が1815年に穀物法を制定して穀物の輸入と輸出を禁止したうえに、食糧不足に対策を立てなかったからであった。時のアイルランド担当相ロバート=ピールは、食糧問題は政府が介入すべきではなく、民間の慈善事業団体が努力で解決すべきである、と述べていた。

ジャガイモ飢饉の経過と要因

 ジャガイモはもともと疫病に罹りやすく、それまでもたびたびウィールス性のジャガイモ疫病が流行していた。1843年にアメリカ東部でジャガイモ疫病菌が発生、病気の菌の胞子はすごい勢いで拡散し、葉や茎、その周辺の土壌で発芽した。疫病に罹って生育したジャガイモは初めのうちは黒い斑点がつき、やがて柔毛が生えてくする。するとすぐ腐り始めて変色し、ぐにゃぐにゃになる。独特の匂いで疫病に罹ったことに気がつくことが多い。このジャガイモ疫病はアメリカ東部に広がり、大西洋を越えヨーロッパに広がった。
 以下、1845年~48年のアイルランドの経過を見るとともに、ジャガイモ飢饉の要因を考えてみよう。<ブライアン=フェイガン/東郷えりか他訳『歴史を変えた気候大変動』2009 河出文庫 p.322-348 を要約>
要因① ジャガイモへの過度な依存 ジャガイモには寒さに強いものなどいろいろな品種があったが、アイルランドでは単作が続いたためむやみに異種交配が行われ、19世紀初めには痩せた土地でも育つが栄養価が低く、もともと馬の飼料用だったランパーと言われる品種だけになっていた。痩せた土地でも育つので貧しい農民はランパーに依存するようになり、それがアイルランドの人口を支えていた。しかし品種が一種類だけと言うことは、疫病が流行すれば全部やられてしまう、という危険性があったのであり、1845年にはそれが現実のものとなってしまった。
要因② 気候不順とジャガイモ疫病 1845年の夏は涼しく、湿気の多い肌寒い天候と変わりやすい風は、ジャガイモ疫病の胞子があらゆる方角に飛散するのに好都合だった(ジャガイモはマスクを付けられないと言うことですね)。7月にベルギーで最初に報告されパリ周辺、ラインラント、そしてイングランド南部が感染し、ついに8月にアイルランドのダブリンの植物園で感染したジャガイモが見つかった。アイルランドで作られていたランパーは特にこの疫病に弱かったらしく、9月以降になると感染した地域ではほとんど一夜でジャガイモを腐らせた。
要因③ 政府の無策 当初、アイルランドでは新聞がこの疫病を重視せず、楽観的な論調が多かったが、10月に入って夥しい数の成熟したジャガイモが畑のなかで腐っているのを見てから、民衆が慌て始めた。それでも損害は40%程度だったので供給量は充分だった。しかし、6ヶ月後、無事だったジャガイモを食べ尽くしてしまうと、飢餓が襲ってきた。救援活動はまともな道路がなかったこともあって難航し、地主も赤字になっていたので小作人を助けることができず、本国のイギリス政府も穀物法があるため、ジャガイモに代わる穀物を輸入してアイルランドの農民に支給することもできず、無策のうちにその年は終わった。
穀物法廃止へ ロンドンではロバート=ピール首相が委員会を作り被害状況の調査と対策の立案を提案させた。委員会はジャガイモの半分は貯蔵庫の中で腐っていると推定したが、原因を突き止めることはできず、アメリカから10万ポンド相当のトウモロコシを緊急輸入すべきだと首相に勧告した。ピールはそれまでの考えを変え、穀物の輸出入を禁止していた穀物法の廃止を決意し、1846年6月に実現させた。しかしそれは農民救済に結びつかなかった。

飢餓の深刻化

 1846年4月には、農民が種芋まで食べていていたので、作付面積は3分の1まで縮小した。気候はもち直したので今年は大丈夫か、と思われたが8月の初め、ジャガイモ疫病が昨年より2ヶ月早く現れ、卓越風に乗って1週間に8キロの速度で広がり、ほとんど全滅の状態になった。
(引用)この年はまったく壊滅状態だった。新しくとれたジャガイモで食いつなぐことすらできなかったのである。すでに衣類や所持品は寝具に至るまですべて質に入れてあるか、食べ物と交換してしまっていた。リメリックからダブリンまで、青々としたジャガイモ畑はどこにも見あたらなかった。豪雨が降り、激しい雷雨が黒くなった畑を襲い、疫病にやられた土地には濃い霧が立ちこめた。9月2日、ロンドンの『タイムス』紙は、ジャガイモは「全滅」だと報じた。<ブライアン=フェイガン/東郷えりか他訳『歴史を変えた気候大変動』2009 河出文庫 p.339>
追いつかない政府の対策 1846年はヨーロッパ各地で食糧不足となり、地中海地方や北アメリカから食料を輸入しようと各国が競争入札する事態となった。フランスやベルギーが高値を支払い、イングランドは入札に負けてアイルランドの救済はより困難になった。民間の商人はアイルランドのための貯蔵物資を貪欲に買い占め、法外な値段で救援団体や個人に売りつけた。それでも政府はアイルランドの食糧問題に無関心か、低い知識しか持っていなかった。ジャガイモのかわりに穀類を食べろ、といいながら、アイルランドの商人の穀類の輸出を制限する措置は取らなかった。もっとも輸出用の穀物を国内に留めたとしても、農民はそれを買うことはできなかっただろう。11月になって救済のための公共事業が始まったが、28万5千人の飢えた人が殺到し、苦しい労働の末にわずかばかりの手当を受けとっただけで食糧価格の高騰には追いつけず、事態は改善されなかった。
疫病の蔓延 飢饉のあとには必ず疫病がやって来る。田舎には病院や診療所はほとんどなく医療制度ははなはだ不十分であり、貧民収容施設は死にかけた犠牲者であふれかえっていた。患者は床に寝かされた。政府はテント式の病院を供給するなどの救済策を打ち出したが、あまりにも微力で、あまりにも遅すぎた。飢えそのものによりも、高熱によって10倍もの人が死亡した。
大飢饉となった理由 1847年は好天が続き、収穫に恵まれたにもかかわたず飢饉が続いた。それは、種芋の不足で通常の5分の1しかイモを植えられず、作物のできは良くとも人びとを養うだけの量はとれなかったからであった。また穀物の値段は前年の三分の一に下がっても、農民は貧しくて買えなかったかったため、飢饉はづづいたのだった。
 1848年には7月に涼しくなり、雨が続くと、ジャガイモ疫病はほぼ一夜にしてひろがり、残されたわずかなジャガイモ畑を襲った。8月には豪雨によってオート麦と小麦が被害を受け、この年の飢饉は1846年と同じくらい壊滅的となった。地代を払えない小作人が土地を追われたが、その地主たちも途方もない借金を抱えて破産しかけていた。お金を集められる人はみな、かなりの土地を所有していた農民も土地を捨て国外に移住した。その後も天候が良くなって収穫が戻ったにもかかわらず飢饉が続いたのは、結局、農民を貧困から救うという社会政策が欠如していたからであった。そのため農村は過疎化し農地は荒れはてた。これが「大飢饉(アン・ゴルタ・モー)」であった。

イギリス政府のジャガイモ飢饉への対応

ヴィクトリア朝のイギリス アイルランドのジャガイモ飢饉は、ヴィクトリア女王(1837~1901年)即位直後のイギリス本国の政治にも大きな影響を与えた。当時イギリスでは、ナポレオン戦争終結後の1815年に、地主を保護するために制定された穀物法に対し、勃興した産業資本家層が自由貿易を主張し、その廃止をしきりに運動していた。自由党は強くその廃止を訴えていたが、地主層の利益代表政党である保守党は維持を主張、その継続を巡って対立が激しくなっていた。
ピール内閣の穀物法廃止 時の首相ピールは保守党党首であったが自由貿易を支持するようになっており、このジャガイモ飢饉が起きるとそれを理由に穀物の輸出入を自由化するため、その廃止に踏み切った。そのため保守党は分裂、ピールは自由党の支持によって1846年6月に穀物法の廃止を実現させた。保守党でありながら産業資本家の立場に立ったピールは、一方で当時盛んになっていた労働者の普通選挙獲得運動であるチャーティスト運動に対しては厳しく取り締まる姿勢を崩さなかった。しかし穀物法問題で保守党を分裂させたピールは党首を辞任、同年秋には自由党のラッセル内閣が成立した。
自由放任主義による不介入  自由党ラッセル内閣は、アイルランドの経済的苦境に対し、アダム=スミス以来の自由放任主義(レッセフェール)の理念を守り、政府は介入せず、農民の自助努力による解決という姿勢を採り、介入しなかった。
(引用)イギリス政府は自由市場を守ることが重要だと頑なに信じ、市場介入を最小限にとどめる政策に固執していた。当時のヨーロッパ諸国の政府では、この考え方が主流だったのだ。大臣たちは、貧困は自業自得なので、貧乏人は自助努力することが大切だと考えていた。彼らの主な関心事は、社会不安を引き起こさないことと、穀類商人や企業家のように政治的に力をもつ実力者たちの機嫌を損ねないことだったのである。<ブライアン=フェイガン/東郷えりか他訳『歴史を変えた気候大変動』2009 河出文庫 p.343>

移民とアイルランドの人口減少

 1841年の人口調査ではアイルランドの人口は817万5124人だったが、1851年には655万2385人に減少した。当時の通常の人口増加率から言えば、900万ぐらいになるはずだったから、250万人がいなくなったことになる。そのうち100万がアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに移民として脱出したので、残りの150万人が飢饉とそれに関連する病気で死亡した。これらは控えめな数字だろう。
 社会基盤が発達したと考えられている19世紀中頃のヨーロッパで、これだけの犠牲者が出たのは、予測不能な天候と単一作物への過度の依存のためであるが、それだけでなく、政府の無関心、無策が原因だった。レッセフェール、自由放任を信奉するあまり、政策的な穀物輸入による食料確保や、農民の貧困対策としての公共事業の導入などは、社会経済への政府の介入としてやってはいけない、と考えられたからだった。<フェイガン『上掲書』 p.345>

参考 ジャガイモ飢饉とコロナ禍

 この19世紀イギリスの政治家がジャガイモ飢饉という事態に際して「自助」を原則として救済にあたろうとしない姿勢は、資本主義社会勃興期においては見上げた見識だったかもしれない。しかしジャガイモ飢饉では多くの農民が犠牲となり、アイルランドは壊滅的な打撃を受けたが、同時にイギリスでは社会政策の必要も意識されるようになったのではないだろうか。またアイルランド人の独立の動きはここから始まっている。アイルランド民衆の払った犠牲は、長い目で見れば歴史がその苦境を乗り越えたという意味で役に立っている。
 2020~21年の新型コロナウィルスとの戦いにとって、このジャガイモ飢饉は示唆に富む出来事なのではないだろうか。ジャガイモ疫病はある意味では人間が感染するのと同様の被害をもたらした。しかるに、21世の日本の政治家がまたまた「公助」よりも「自助」と言いだし、コロナ禍では経済が優先だと言って徹底した感染防止策を躊躇し、苦しむ自営業者に充分な救済を行わない、というのは180年前のジャガイモ飢饉の時のイギリス政府と同じで、世界史に学ばない、あまりの周回遅れに過ぎてめまいが起こりそうだと感じる。<2020/3/24記>
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波多野裕造
『物語アイルランドの歴史』
1994 中公新書

ブライアン=フェイガン
東郷えりか・桃井緑美子訳
『歴史を変えた気候大変動』
2009 河出文庫