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チャーティスト運動

1838~48年、イギリスで盛んになった選挙権要求などの都市労働者の運動。人民憲章を掲げて普通選挙実現を議会に請願した。

チャーティスト

チャーティスト運動

 イギリスにおいて、第1次選挙法改正で選挙権が認められなかった都市の労働者階級による、普通選挙を議会に要求する請願運動。指導者にはアイルランド生まれの下院議員オコンナー、ロンドン労働者協会のラヴェットがいた。1838年5月8日に「人民憲章」(People's Charter)に普通選挙などの要求を盛り込んで請願したので、彼らはチャーティストと言われた。
 当時ヨーロッパの大陸諸国は、ウィーン体制のもとで、自由主義・ナショナリズムが抑圧されていたので、イギリスの労働者が参政権を求めて立ち上がったことは強い影響を与えた。
オコンナー O'Connor 1794-1855 は、アイルランド独立運動の指導者で弁護士。1832年にイギリスの下院議員選挙で当選したが、その後選挙権を剥奪されて議員から除名された。それを機にチャーティスト運動に加わった。1847年には再び下院議員に選出され、1848年のチャーティスト運動の最後の盛り上がりを指導し、暴力を含む直接行動を主張したが、1852年に発狂して議員を辞職した。なお、同時期のアイルランド独立運動の指導者オコンネル O'Connell 1775-1847 とは別人。

運動の高揚と衰微

 1839年と42年は特に盛り上がり、議会で審議されたが、共に否決された。労働者は請願行動にとどまらず、小規模ながら武装蜂起したり、ランカシャーなどでのストライキなどが闘われた。1840年代には穀物法による穀物価格が高騰し、1842年には選挙法改正と穀物法廃止を掲げたチャーチスト運動が盛り上がった。1845年にはアイルランドでジャガイモ飢饉がおこり、イングランドでも食糧不足が深刻になるなど事態が悪化したが、一方では1842年以降は、イギリスの景気が鉄道建設ブームで好転し、労働者の生活の向上も見られ、運動は停滞した。そのような中、保守党ピール内閣は、チャーティスト運動を厳しく抑圧する一方で1846年穀物法の廃止に踏みきりった。
 フランスでは七月王政のもとで、ブルジョワが政権を握っていたが、チャーティスト運動の影響を受けて選挙法改正運動が高まっていたが、ギゾー内閣が集会や言論の自由を認めず、運動を弾圧したので、1848年に二月革命が勃発し、七月王政が倒された。これに刺激されてイギリスのチャーティスト運動も最後の高揚期を迎え、第三次請願運動が行われたが、その後は急進派と穏健派の対立などもあって運動は衰微した。 → 1848年革命

Episode インチキ署名簿、請願運動の限界

 1848年の第三回請願は200万近い署名簿を指導者のオコンナーを先頭に議会に届けようとした。しかし請願のデモ行進は15万人の大警備陣によって阻止されてしまった。やむなく馬車で議会に届けられることになった署名簿を点検したところ、そのなかには、獅子っ鼻、団子っ鼻、ヴィクトリア女王、ウェリントンといったインチキ署名が多数発見されため、オコンナーたち指導者の面目は丸つぶれとなり請願書提出は断念された。<村岡健次『世界の歴史』22 中央公論新社 p.405> 
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