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タンジマート/恩恵改革

1839年のギュルハネ勅令に始まるオスマン帝国の近代化策。司法・行政・財政・軍事などにわたる西欧化を表明した、アブデュルメジト1世の諸改革に続き、クリミア戦争期をはさんで、1876年のミドハト憲法の制定までにいたる。翌年の露土戦争勃発で1878年に憲法が停止され、成果は否定された。

 タンジマート Tanzimāt はトルコ語で再編成あるいは改革を意味し、恩恵的改革を意味するタンジマート=イ=ハイリエ Tanzimāt-i Hayriye の略。タンズィマートとも表記される。かつては「恩恵改革」と言われることも多かった。19世紀前半のオスマン帝国の危機の時代に、帝国全盛期のスレイマン1世の繁栄を回復することを目指したが、エジプト=トルコ戦争の敗北を受け、エジプトのムハンマド=アリーの改革にならい、一定の西欧化を果たすことで西欧列強からの批判をかわす目的もあった。  1839年に即位したスルタンアブデュルメジト1世は、ギュルハネ勅令を発布して、内外に改革を宣言、そこから長期にわたって一連の施策が断続的に続けられた。実際に推進したのは宰相ムスタファ=レシト=パシャなどの改革派官僚であった。
タンジマートの時期 タンジマートは一般に、1839年のギュルハネ勅令から、クリミア戦争(1853年~56年)をはさみ、1876年アブデュルハミト2世の即位とミドハト憲法の制定までの37年間、とされている。
 その時期についてはさらにひろげ、1826年マフムト2世によるイェニチェリの全廃から始まり、いったん停止されたミドハト憲法が復活した1908年青年トルコ革命までとする説明もある。いずれにせよ、19世紀のオスマン帝国末期に、近代化を目指す「上からの改革」が行われた時期である。

タンジマートの内容

 内容はヨーロッパを手本とした、近代的な中央集権国家の建設を目指すもので、法律の整備、教育省の設置、銀行設立、官営工場の設置、軍制の改革などを行った。また改革の柱として出された、次の二つの勅令(スルタンの命令として定められた法令)が重要で、それぞれクリミア戦争前のタンジマート前期、戦後のタンジマート後期を代表する改革である。
  • 1839年 「ギュルハネ勅令」 オスマン帝国臣民の生命・財産・名誉の保障、租税の法定化、兵役の期間などの明確化、裁判を受ける権利の保障など。特に、ムスリム、非ムスリムにかかわらず全オスマン帝国臣民に平等の原則が認められ、従来のムスリム優位の原則が改められた。
  • 1856年 「改革勅令」 クリミア戦争でロシアの南下を食い止めたものの、イギリス・フランスへの依存が強まり、その圧力もあって、講和の直前に「改革勅令」を出し、非イスラーム教徒の政治的諸権利の尊重を唱い、西欧諸国への接近を示した。

タンジマートの意義と目標

 タンジマート改革は、非西欧の諸文明世界における、ほとんど最初の体系的な西洋化による「近代化」の試みであった。それは後の、中国の洋務運動、日本の明治維新、タイのチャクリ朝の改革などの先駆であった。タンジマートが推進される過程で、宮廷とは別個に国家機構を支える近代的官僚制度が整備され、ヨーロッパの制度や技術を学んだ官僚が排出するようになり、彼らは特にクリミア戦争後のタンジマート後半で活躍するようになり、スルタン専制政治と官僚による政治は次第に対立した関係になっていく。
 またタンジマートは外圧に対してオスマン帝国を守るための上からの改革であった。そのため第一に帝国の支配の再集権化が目標とされ、アナトリアの地方有力者を再編成し、分権化の著しかったシリア、イラク、アラビア半島、アフリカのリビアに対する統制を回復した。しかし、ムハンマド=アリーが半独立的総督領としていたエジプト、1830年以来、フランスによって植民地化されていたアルジェリア、バルカン諸地域のギリシアセルビアブルガリアなどを再集権化することはできなかった。

「新オスマン人」の登場

 タンジマートを推進した改革派官僚であるムスタファ=レシト=パシャらはエリートでもあり、自由主義や立憲政治までは考えていなかった。しかし、クリミア戦争と、戦後にイギリス・フランスの圧力が強まったことは、オスマン帝国にとって強い衝撃となり、スルタン専制政治の古い体質に対する疑問を感じるようになった知識人の中から、改革を一歩進めて西欧風の立憲政治の導入を主張が現れた。その代表的人物、ナームク=ケマルが中心となって1865年には秘密結社「新オスマン人協会」が結成され、彼らは「新オスマン人」と言われるようになった。1867年に弾圧され、彼らの多くはヨーロッパに亡命し、国外から立憲主義や自由主義、国民国家といった近代思想の啓蒙活動を働きかけた。
 そのような第三世代とも言える動きに影響され、体制内の若手官僚の中に、立憲政治の実現をめざす動きが芽生え、1870年代にミドハト=パシャを中心に結束し、憲法の制定まで漕ぎ着けることとなる。

ミドハト憲法の制定と停止

1876年、新スルタンのアブデュルハミト2世の即位と同時に「オスマン帝国憲法」が制定された。この通称ミドハト憲法は、議会の開設などとともに、宗教・民族を越えた「オスマン人」を帝国臣民と規定するなど、オスマン主義にそったものであり、アジア最初の近代的な憲法として意義がある。また、一連のタンジマートの完成を意味し、その成果であったが、翌年の露土戦争の勃発を口実としたスルタン・アブデュルハミト2世の一声で停止されてしまう。タンジマートはオスマン帝国をイスラーム国家から立憲主義・国民国家に転換させることが出来なかった。
 これによってタンジマートの成果は否定された形となり、その後、アブデュルハミト2世の専制政治が復活し約30年続くこととなる。

タンジマートの限界

 タンジマートは結局、西欧の模倣に終わり、また近代化に必要な財源は民衆の税負担に依存し、鉄道利権などを得た一部のヨーロッパ系企業だけが利益を得て、民族資本が育たず、結局外債に依存する度合いが強まり、国民的支持を受けることが出来なかった。結局、改革と戦争の財源を外債に依存し、国内産業の育成(明治国家でいえば殖産興業)に関心を向けなかったことがタンジマート改革の限界であったといえる。
 タンジマートは「恩恵」として民衆に与えられるもの、という基本的な性格を脱することはなかったので、恩恵に浴することの無かった民衆にとっては無縁と感じられ、彼らの心情は依然としてイスラーム神秘主義教団などに吸い取られており、オスマン帝国を下から変革する動きにはならなかった。
 またタンジマートの目指した「近代化・西欧化」は、制度的・技術的な面にとどまるものであり、この段階ではオスマン帝国のイスラーム国家としての基本であるコーランやシャリーアを否定したものではなく、バランスを重視したものであった。その点では、同じアジアの清朝が採用した洋務運動(1861年~1894年)の中体西用の理念と同様な傾向が見られる。

タンジマート後のオスマン帝国

 オスマン帝国そのものはヨーロッパ列強の対立という駆け引きの中で第一次世界大戦後の1922年まで生き延びることとなるが、その滅亡までの過程で、どのように国家統合の理念が変化したか、次のようにまとめることが出来る。
 タンジマートの過程で、「新オスマン人」が提唱した、宗教や民族を越えて、オスマン帝国の「領土」内の人びとを「オスマン人」として自覚させようとする「オスマン主義」が生まれ、それは改革勅令やミドハト憲法で生かされることとなった。しかし、オスマン帝国の領土そのものが縮小することによって、オスマン主義の意義は薄れて行き、スルタン・アブデュルハミト2世はそれに代わってイスラーム教という「宗教」を再び国家統合の柱に据えようとして「パン=イスラーム主義」を採用する。それはスルタン専制を強化する目的でしかなかったため、反発が強まり、青年トルコ革命によってミドハト憲法が復活され「オスマン主義」が復権する。しかし、第一次世界大戦前後の民族主義の強まりの中で次第にトルコ人という「民族」の自覚を国家の柱に据えようとする「トルコ民族主義」に転換した。その結果、領内のアラブ人の中にトルコ人の支配に反発する「アラブ民族主義」が強まり、民族対立が激化することとなった。その中で、大戦での敗北を契機にオスマン帝国は崩壊(1922年)することとなる。
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小笠原弘幸
『オスマン帝国』
2018 中公新書