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ギュルハネ勅令

1839年にオスマン帝国のスルタン、アブドュルメジト1世の時に出された近代化をめざす勅令。イスラーム教徒・非イスラーム教徒の法の前の平等、身分保障、などを定めた。

 19世紀前半のオスマン帝国の危機の時代、西欧列強の進出にさらされる中で、従来の宗教国家から脱皮して、近代的な主権国家への転換を目指したタンジマートといわれる上からの改革の開始をつげた勅令。ギュルハネ Gülhāne とは、イスタンブルのトプカプ宮殿にある「薔薇宮」(バラ園)のこと。
 1839年11月3日、スルタンのアブデュルメジト1世が臨席し、宰相ムスタファ=レシト=パシャが、各国の大使公使、文武の高官、イスラーム教のウラマー、キリスト教聖職者、各界の代表などの多数を前にして、勅令を読み上げた。その場所がギュルハネであったので、ギュルハネ勅令(薔薇園勅令)といわれる。

内容とねらい、意義

 その内容は、イスラーム教徒、非イスラーム教徒を問わず、オスマン帝国の臣民として法の前で平等であり、その生命、名誉、財産は保障されること、裁判の公開と刑事犯の人道的な扱い、徴税請負制度の廃止、徴兵と兵役義務の整備などであった。これが出されたのは第2次エジプト=トルコ戦争の開始直後、前スルタンのマフムト2世が急死した時であり、その意図を受け、キリスト教諸国に介入の口実を与えないために出されたものである。このギュルハネ勅令の発布から、タンジマートというオスマン帝国の近代化(西欧化)改革運動が始まった。
 ただし、全面的な近代化・西欧化を目指したわけではなく、オスマン帝国のイスラーム国家としての根幹を変えず、西欧の制度や技術を取り入れようとする、バランスを重視している。
(引用)この勅令は、バージニア権利章典(1776年)やフランスの人権宣言(1789年)の影響が見られることから、帝国の近代化・西洋化の象徴として考えられてきた。しかしその一方で、イスラム法の重要性が強調され、伝統的なイスラム思想の文言を多用して書かれていることも注目される。すなわち、薔薇園勅令は、イスラム的伝統と西洋化のバランスを取りつつ制定されたものなのであった。以降のオスマン帝国では、この薔薇園勅令の大綱に沿って、「タンズィマート(再秩序化)」と呼ばれる一連の改革が進められることとなる。<小笠原弘幸『オスマン帝国』2018 中公新書 p.236>
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小笠原弘幸
『オスマン帝国』
2018 中公新書