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バーブ教/バーブ教徒の反乱

1848~50年、イランで起こったイスラーム教シーア派分派がバーブ教。彼らがカージャール朝に対して反体制運動を起こしたが、弾圧された。

 1848年7月にイランカージャール朝で、バーブ教徒による反体制運動が始まった。バーブ教徒はイランでサイイド=アリー=ムハンマド(バーブ)が1844年に始めたシーア派イスラムの分派で、彼は自らを救世主(マフディーという)であり、また神と人々を仲介するバーブ(門の意味)であると称し、男女平等、階級差別の廃止、貧富の差の解消などを説き、民衆の支持を受けた。
 カージャール朝はバーブ教徒を危険な反体制集団として弾圧、1850年にはサイイド=アリー=ムハンマドを捕らえ処刑し、信徒も約4万人が虐殺された。こうしてバーブ教徒は弾圧され、1852年頃までに鎮定されたが、その思想はその後も分裂しながらも民衆の中に残っていく。その一つ、弟子のバハーオッラーが始めた穏健なバハーイー教は、現在も世界中に広がっている。

バーブ教

 19世紀に、イラン・カージャール朝の国教であったシーア派十二イマーム派のなかに新たな思想的な動きとして、隠れイマームと一般のシーア派信徒の仲立ちをする存在が必要であるとする主張が表れ、その提唱者の名前によってシェイヒー派とよばれた。1819年にシーラーズの商家に生まれたサイイド=アリー=ムハンマドは、シェイヒー派に加わってその指導者となり、自らがその仲立ち、つまり隠れイマームへの入り口(バーブ、門)であると主張するようになった。さらに彼は救世主(マフディー)を名乗り、コーラン(クルアーン)にかわる律法書『バヤーン』を著し、ムハンマドのかわりに遣わされた預言者であると主張した。
(引用)既存のシーア派十二イマーム派イスラームと完全に決別したバーブことアリー=ムハンマドは、自らの説教のなかで、貸付利子や通貨基準の法制化、通商の確保、商取引の自由、財産の保障など、自らが生活の基板とした商業の分野における改革に始まり、無産者・孤児・寡婦の保護、男女平等など広く社会全般におよぶ斬新な改革を唱道するにいたった。こうしてガージャール朝(カージャール朝)の支配体制にとっても大きな脅威となった彼は、1850年にタブリーズで処刑された。<羽田正編『イラン史』YAMAKAWA SELECTIN 2020 山川出版社 p.185>

バーブ教徒の反乱の特質

 サイイド=アリー=ムハンマドの処刑後、ウラマーや商人、職人、農民層を中心とするその支持者は、1848~49年のシェイフ・タバルスィーから始まり、1850、53年のタブリーズなど各都市で次々と蜂起した。一部には租税や個人的所有・保有の廃止、さらには財産の共有を唱えるものもあらわれた。この反乱は、アラブ人の聖地ではなくイラン・ザミーン(イラン人の意識するイランの土地)で起こされたこと、聖典『バヤーン』がペルシア語で書かれていること、イスラーム太陰暦ではなくノウルーズ(西暦の3月21日の春分)を年度始めとするイラン古代の太陽暦を用いたことなど、バーブ教徒の運動に宗教的に表現された一種のイラン・ナショナリズムを読み取ることもできる。<前掲『イラン史』p.186>
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羽田正編『イラン史』
YAMAKAWA SELECTIN
2020 山川出版社