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十二イマーム派

イスラーム教シーア派の中の主流派。アリーの子孫の12代をイマーム(指導者)として尊崇し、第12代イマームは「隠れイマーム」となって終末に再臨すると信じる。サファヴィー朝・現在のイランの国教とされている。

 イスラーム教の主流派で多数派であるスンナ派に対して、少数派とされているシーア派のなかの主流派の位置を占める宗派である。
 十二イマーム派は、第4代カリフアリーとその子孫だけをムハンマドの後継者、ウンマ(信者の共同体)の指導者(イマーム)として認める。アリーはムハンマドの従兄弟であり、またその娘ファーティマの夫であったから、その子孫にのみムハンマドの血統が受け継がれているとし、その他のカリフの指導性を認めない。

イマームとは

 十二イマーム派では、イマームはムハンマドのようにアッラーの言葉を理解できる特別の関係を持ち、信者の精神的指導者となるとされ、彼らは誤りや罪を犯すことがなく、ムハンマドを通じて神から特別の知識を与えられている信じられていた。したがってその継承には、ムハンマドの血統をひくことと先任者から指名されることが条件とされた。
 しかし指名がないままにイマームが亡くなるようなことがあると後継を巡って争いが生じ、12人のイマームを認める十二イマーム派に対して、それぞれ別なイマームを支持するザイド派(現在も北イエメンなどに残る)やイスマーイール派(北アフリカのファーティマ朝を建てる。その後さらに幾つかに分派)などの分派が出現した。

参考 十二人のイマーム

 十二イマーム派の十二代のイマームの個々については高校世界史ではまったく必要ないが、一体どんな人がいて、どんなふうに継承されたのか、参考までにまとめると次のようになる。
 初代イマーム・アリーはムハンマドの従兄弟にあたり、ムハンマドから兄弟と呼ばれるほど親しく、その娘ファーティマを妻に迎え、ハサンとフサインという二人の子をもうけた。アリーは信仰、軍事的才能、雄弁さなど様々な面で高く評価されていたが、ムハンマドが亡くなったとき、ムスリムはカリフにアブー=バクルを選んだのに対して、アリーこそを後継者(イマーム)にすべきだと主張したのが“シーア・アリー”(アリー党)と言われる人々でシーア派のもととなった。アリーはウマイヤ家のムアーウィヤと争ったが、和平に応じことを非難した人々がハワーリジュ派として分派し、その刺客によって661年に暗殺された。
ハサンとフサイン 二代ハサンは父の死後まもなくムアーウィヤに降ったが、その弟の三代フサインはウマイヤ朝への抵抗を続け、680年カルバラーの戦いに敗れて戦死し、その死を悼む行事は現在でもシーア派信仰の核になっている。このような苦境の中で、ムハンマドの血統をひくこのアリーとその一族こそイマームであるべきであるとするシーア派が形成された。ただしハサンとフサインは古い伝承でカリフに加えられることもある。
ザイド派の分派 4代アリー、5代ムハンマド以降のイマームたちはシーア派の伝承では時のカリフの圧政に苦しんだとされ、ウマイヤ朝からアッバース朝にかけて反乱を繰り返したがいずれも失敗した。イマームであることを宣言して蜂起することを条件とする人々は第5代イマームにアリーの曾孫であるザイドを擁立したのでザイド派として分派し、それ以外の主流はイマーム派といわれた。6代ジャアファル=サーディクの時から弾圧に直面した場合は、信仰を隠しても良いとする「信仰隠蔽(タキーア)」の教義を説かれるようになった。
イスマーイール派の分派 8世紀の後半、第6代イマーム・ジャアファルの次のイマーム継承をめぐって7代ムーサーの兄イスマーイールの子を推す一派はイスマーイール派として分派した。イスマーイール派はファーティマ朝を成立させたが、その後もイマームの継承をめぐって分裂を繰り返し、ドゥルーズ派やアラウィー派が分派した。この時期のイマームはほとんど政治的には目立たなかったが、学問の上で大きな影響を次代にあたえている。
アッバース朝時代のイマーム 第8代アリー・リダーは例外的に政治の表舞台に現れ、アッバース朝のカリフ・マームーンに支持されイラン北東のホラーサーン地方に招かれ、その後継者に指定されたが、最後は暗殺された。その墓廟はイランのマシュハド(殉教者の意味)にあり今も参詣者が多い。
12代イマーム イマーム派の中でイスマーイール派に属さなかった多数派の支持で9代ムハンマド、10代アリーとイマーム継承が続いた。874年に11代ハサン=アスカリーが死去した際、次のイマームを息子のムハンマドが継いだが、その姿を誰も見たことがなかった。この12代イマーム・ムハンマド=ムンタザル(待望される者、の意味)は「お隠れ(ガイバ)」されているのだという説が信じられ、そこからこの派を「十二イマーム派」と言うようになる。<水上遼『語り合うスンア派とシーア派』《アジアを学ぼう》別巻16 2019 風響社 p.10-11,15-19/『イスラーム辞典』1993 東京堂 などを参照>

「隠れイマーム」

 十二イマーム派を特徴づけている特異な主張がこの第12代イマームを「隠れイマーム」である、とするものである。十二イマーム派の人びとは、12第イマームは隠れた状態で生き続けており、今も存命中であると主張し、人々が神の最後の審判を受ける終末が迫るときにそれに先駆けて救世主(マフディ)として再臨すると信じたのだった。 → シーア派の項を参照
(引用)彼らは、アル=アスカリーには彼自身が後継者に選んだ幼児がいると主張した。シーア派の人びとの多くには、そんな子供など初耳だった。彼らは疑念を捨てきれずに反対した。いったい、どのようにしてその子供が存在するとわかるのか。返答はこうだった。子供の身元を暴露すれば、彼も全シーア派共同体もアッバース朝当局から襲われる危険を冒すことになる。シーア派は昔に比べると政治活動を控えていた。しかし、アッバース朝からは疑いの目を向けられていた。それで、新しいイマームの身元の公表は賢明なことではないと見なされた。
 この神秘的な子供について懐疑を表明する者も多かったが、シーア派の多数には、彼が新しいイマームになるのだが、未来のある時期まで隠れているという考えがゆっくりと浸透していった。こうして彼には「隠れイマーム」という称号が与えられた。十二イマーム派の学者たちは、彼はサーマッラーの小洞窟で隠れたと教えた。今日でも、シーア派はこの洞窟の上に建設された小さなモスクに参集して、彼の帰還を祈っている。・・・
 学者達は言う。あの最後の日、隠れイマームは天界の光の炸裂の中にふたたび現れるだろう。彼は天使の軍隊の先頭に立ち、何百年も忠実にイマームにしたがってきたシーア派の人びと全てを率いている。彼は、ムハンマドのサンダルとリングを身につけ、手にはムハンマドの剣を振るう。・・・隠れイマームは「アル・マフディー」つまり神に導かれたものとも呼ばれる。・・・第12代イマームはシーア派共同体が受けてきた艱難辛苦もついに終わらせるのである。そして、神がありとあらゆる生命におのおのの運命を定める審判の日まで、正義と知恵を持ってシーア派共同体を支配する。
 このような考えは、十二イマーム派が等しく心に描くが、スンニー派共同体には決して受け入れられなかった。事実、このような信念が二つの宗派の乖離の主な原因である。<M.S.ゴードン『イスラム教』1994 青土社 p.99-100>
 十二イマーム派の「隠れイマーム」信仰を不思議に思うことは必要ない。各地の宗教でよく見られることで、日本でもよく知られた例に、真言宗の開祖空海(弘法大師)が挙げられるだろう。弘法大師は高野山の奥の院に「入定」して今もなお生き続け、冥想を続けていると信じられている。高野山では今も毎日、空海のために供僧が三度の食事を届けている。

十二イマーム派の形成

 12代イマーム・ムハンマド=ムンタザルは「隠れイマーム」であったが、特定の代理人よばれる4人が信徒たちとの仲介に当たっていた。ところが940年以降は信徒たちとの交流はほぼ断たれてしまう。この10世紀半ばに「隠れイマーム」(ガイバ論)は確立し、それは十二イマーム信仰の枠組みが完成したことを意味する。
 932年にはシーア派を信奉するブワイフ朝がバクダードを支配しアッバース朝カリフを保護下においており、そのもとで十二イマーム派の教義も整備された。

サファヴィー朝イランの国教となる

 16世紀初め、イラン北西部を拠点に台頭した神秘主義教団サファヴィー教団の指導者イスマーイール1世がイラン全域を支配し、サファヴィー朝を建国した。サファヴィー朝は、アフガニスタンのシャイバニ朝、アナトリアのオスマン帝国に挟まれ、国家の存立意義をスンナ派の両国とは異なるシーア派の分派である十二イマーム派を国教とすることに求めた。その中核となったのは、トルコ系遊牧部族民からなる騎兵集団のキジルバシュであった。16世紀末のアッバース1世の時に最盛期を迎え、首都イスファハーンが交易とシーア派学芸で栄えた。こうしてイランはイスラーム世界の中では少数派であるシーア派国家として存続することとなり、それ以後の諸王朝を経て、シーア派ウラマーは社会の中枢として伝統的支配権を強めていった。

イラン革命

 サファヴィー朝は18世紀に衰え、イランにはトルコ系王朝に支配されるなどの混乱を経て、20世紀に成立したパフレヴィー朝では世俗化が進んだ。しかし、民衆レベルでは一貫してシーア派十二イマーム派信仰は衰えなかった。
 1970年代に世俗化を進めようとしたパフレヴィー朝に反発した十二イマーム派ウラマーのホメイニによって1979年にイラン革命が起こされ、イラン=イスラーム共和国が成立、シーア派十二イマーム派は更に強固なイラン国家の国教としての立場を固めた。現行のイラン=イスラーム共和国憲法では、イランにおける宗教法学者たちは第12代イマームの代理として政治的権威を持つ、とされている。<水上遼『同上書』 p.4>
 → イランのシーア派
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書籍案内

M.S.ゴードン
『イスラム教』
1994 青土社

水上遼
『語り合うスンア派とシーア派』
《アジアを学ぼう》別巻16
2019 風響社