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議会法

1911年、イギリスで成立した、議会における議決において、下院の優越を確立させた法律。特に予算審議での下院の優越が確定した。

 1911年8月、自由党アスキス内閣のもとで成立した、イギリス議会の上院(貴族院)の権限を削減し、下院(庶民院)の優位を確立させた法律。議院法ともいう。以下の二点がポイント。
 1)上院は予算案を否決、または修正することは出来ない。
 2)その他の法令も、下院が3会期引きつづき可決すれば、上院が否決しても法律として成立すること。
 これによって、貴族によって構成される上院の権限は制限され、国民が選挙で議員を選ぶ下院の優越を実現させた。同時に下院議員の任期を七年から五年に短縮し、さらに下院議員に歳費(400ポンド)を支給することが決議された。これによって議会の近代化が達成されたと言える。

議会法成立の背景

 自由主義改革を進めた自由党は、1880年代からグラッドストン内閣のもとで懸案であったアイルランド問題の解決のためにアイルランド自治法案を数次にわたって提案したが、ことごとく上院に否決されていた。国民の公選によって選ばれた下院に対して、貴族階級の利益代弁に過ぎない上院が拒否権を持つことに批判が高まり、上院改革の必要性が認識されるようになっていった。
 議会法成立のきっかけは、アスキス内閣の蔵相ロイド=ジョージが立案した予算案が、ドイツとの建艦競争に必要な財源を高額所得への税率や相続税の増加によって得ようとしたことに対して、貴族階級の拠点である上院が反対したことによる。アスキス内閣は1910年、異例の同一年に2回の総選挙を行っていずれも大勝し、世論の支持を背景にこの「人民予算」を成立させ、さらに一気に上院改革を実現させたのだった。これはイギリス議会制度史上の重要な改革であり、現代の議会制度に継承されている。 → 議会

アトリー内閣の議会法改正案

 第2次世界大戦のドイツ敗北後に行われたイギリス総選挙で、チャーチルの保守党に替わって政権に就いた労働党アトリーは、戦後復興の柱として重要産業の国有化を打ち出した。1947年「製鉄・鉄鉱産業国有化法案」を議会に提出したが、製鉄業界と利害を共にする上院(貴族院)の保守党の反発が予想された。そこでアトリー政権は、1911年の議会法を改正し、上院権限をさらに縮小する方針をかためた。それは、上院による否決をそれまでの3会期から2会期へ、さらに1会期へと段階的に短縮するという内容だった。チャーチル率いる野党保守党は予想通り激しく反発したため、1948年6月と9月の二度にわたり下院は通過したものの上院で否決された。そして49年12月に三度目の上院での否決となったが、議会法の規定に基づいて法案は可決となった。これ以後は、公共政策に関わる法案についても、金銭法案(予算案)と同様に貴族院での否決権を1会期に限ることが慣例となった。こうして1951年2月に製鉄・鉄鋼も国有化され、主要基幹産業のすべてが政府の管轄下に置かれることとなった。
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