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ニューギニア(イリアン)

オーストラリア大陸の北に横たわる巨大な島。16世紀のポルトガル、スペイン以来、西欧諸国が進出、19世紀にオランダ、ドイツ、イギリスの三国で分割支配された。現在は西部(西イリアン)がインドネシア領、東部は1975年に独立しパプアニューギニアとなっている。

ニューギニア島 GoogleMap

インドネシアではイリアン(東方の意味)という。本来のメラネシアの人びとの間ではパプア人(縮れた髪の毛の人の意味)といわれたことから、現在はパプアと言われることも多い。16世紀にやってきたスペイン人の探検隊が地元の人々を西アフリカのギニアの人々と同じだとみなして、ニューギニアと呼ぶようになった。しかし現地人はオーストラリアと同じアボリジニーであり、東南アジアから移動してきたホモ=サピエンスである(9000年前頃まではオーストラリア大陸と地続きでサフルランドを形成していた)。
 島の面積は約78.6平方キロメートルで、グリーンランド島に次ぐ世界第二位の面積を有し、実に日本の約2倍にあたる。島の北西が赤道にほぼ接しており、熱帯気候であり、またトーレス海峡を挟んでオーストラリア大陸に近く、地理的にはオセアニアに入る。

オランダ、ドイツ、イギリスによる分割

 16世紀にポルトガル人(1526年、メネゼス)、スペイン人、17世紀にオランダ人、18世紀にイギリス人が進出した。1884~85年に西半分がオランダ、東半分が北をドイツ、南がイギリスに三分割された。イギリス領(パプア)は1906年にオーストラリア連邦の準州となった。第一次世界大戦後、旧ドイツ領は国際連盟によってオーストラリアの委任統治領となった。西部は第二次世界大戦後、インドネシアがオランダから独立したものの、オランダの実効支配が続いた。東部の北半分はオーストラリアの委任統治領から信託統治となり、南半分のオーストラリア準州とともに実質的にオーストラリアが統治したが、1975年にパプアニューギニアとして独立した。

インドネシアによる西イリアンの「解放」

 ニューギニア島(インドネシアではイリアン島という)の西部(西イリアン)は、1949年、インドネシア連邦共和国がオランダから独立したときのハーグ協定によって、インドネシアに併合されることになっていたが、1950年に連邦を解消して単独のインドネシア共和国となった後も、オランダはその実質支配を続けた。インドネシアのスカルノ大統領は国際連合に訴えるなど西イリアン問題として国際問題化した。1961年から62年に、スカルノは軍事講堂による解放も目指すとしてオランダ軍と衝突が起こった。スカルノは米ソの介入を避けて独自の交渉を進め、1962年8月に西イリアン協定を成立させ、1963年にインドネシアの行政権を移管、1969年までに住民の意思確認をしたうえでインドネシアに編入することが決まった。実際に1969年8月2日、住民投票が実施され、インドネシアへの帰属が承認された。
 インドネシア領となった西イリアンは当初、イリアンジャヤ州とされたが、後に西パプア州と改称、さらに現在は西端を西パプア州、残りをパプア州の二州に分けている。
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