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自主管理社会主義

ソ連圏から決別したユーゴスラヴィアで、ティトーの主導権の下でとられた社会主義の独自路線。

 コミンフォルムから1948年6月に除名されたユーゴスラヴィア連邦共和国では、ティトーの指導する共産党が、ソ連型社会主義からの脱却を目指す独自路線の模索が始まった。

独自の社会主義路線の模索

 さまざまな労働現場で社会主義とは何かという根本問題が改めて検討され、「工場を労働者へ」というスローガンの実現が提起された。
(引用)緊迫した雰囲気のなかで、49年11月、経済担当相のキドリッチは労働組合同盟と協議した結果、国有化された大企業にあてて、生産から分配にいたるすべての権限を持つ、労働者評議会設立の通達を出した。これに応えて、多くの企業で労働者評議会が設立されていった。労働者自主管理という新たな社会主義の基礎が据えられたのである。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.117>
 さらに50年6月、ユーゴ人民議会が「自主管理法」を採択し、自主管理社会主義が制度的に第一歩を踏みだし、それを確認する意味で53年1月に新憲法が制定された。
 「この憲法では非国家化と民主化、官僚主義の克服、労働者自主管理および地方自治におけるコミューン(オプシュティナ)制度をあらゆる面の基礎とすることが規定されると同時に、チトーが大統領に選出された。」生産手段の国有ではなく社会的所有、政治的・経済的意志決定の分権化、労働者自主管理を特徴としたこの時期の経済体制は「新経済システム」と呼ばれた。しかし、この時期には市場の全面的導入が考えられていたわけではなかった。

ユーゴ共産党の党名変更

 自主管理社会主義路線が定まった1952年11月のユーゴ共産党第6回大会で党名が「ユーゴスラヴィア共産主義者同盟」と改称され、これと関連して、党の役割は指令を出すことではなく、説得とイニシアティブを発揮することだとされた。ついで58年4月のユーゴ共産主義者同盟第7回大会では、共産主義者同盟の積極的な役割の否定とともに、「国家の死滅」さえ唱えられ、理念的には着実に分権化が図られていった。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.117-119>

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書籍案内

柴宜弘
『ユーゴスラヴィア現代史』
1996 岩波新書

柴宜弘
『ユーゴスラヴィアの実験』
岩波ブックレットシリーズ
東欧現代史4
1991 岩波書店