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コミンフォルムのユーゴスラヴィア除名

1948年、独自の社会主義路線をとるユーゴスラヴィアがコミンフォルム(共産党情報局)から除名された。

 ユーゴスラヴィア連邦共和国は1947年に結成されたコミンフォルムの主要メンバーとなったが、次第にティトーの独自路線がソ連共産党と対立するようになり、はやくも翌1948年には民族主義的偏向があるとしてその年のコミンフォルム第2回大会で除名された。さらに1949年のコミンフォルム大会はユーゴスラヴィアを「人殺しとスパイに支配されるユーゴスラヴィア共産党」と非難した。ソ連共産党スターリンの絶対的権威のもと、「ティトー主義者」は他の共産党でも摘発され、追放された。

コミンフォルム除名の理由

 ソ連共産党とユーゴスラヴィア共産党の対立の契機は次のように説明されている。
(引用)ユーゴのチトーとブルガリアのディミトロフがソ連のスターリンに知らせず、勝手にドナウ諸国関税同盟構想を推進したことだとされている。48年2月、両国の代表がモスクワに呼びつけられ、ドナウ諸国関税同盟ではなく、ユーゴとブルガリアによる南スラヴ連邦を即座に形成するよう指示された。1913年の第2次バルカン戦争後、ギリシア・ブルガリア・セルビア(ユーゴ)の三国に分割されていたマケドニア地方の統合問題の解決策として、ユーゴは44年11月からブルガリアに呼びかけて南スラヴ連邦を形成する試みを行っていた。しかし、この時点で即座に連邦を作るのは困難だとの判断から、ソ連の提案を拒否した。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.114>
 このようにソ連とユーゴの提案は決定的に対立していたわけではなく、結局、ティトーがスターリンの面子を汚したということであろう。スターリンとしては社会主義国家建設において本家ソ連の指示を受けずに独自路線をとろうとするユーゴスラヴィアを許せなかった。

ユーゴスラヴィア除名後のソ連・東欧圏

 ユーゴスラヴィアのコミンフォルム除名によって、ソ連・東欧圏では「人民民主主義」の概念が再検討され、各国共産党による独自の社会主義への道といった路線は退けられ、ソ連による「与えられた社会主義」の建設が始まった。こうして「ソ連・東欧圏」が確立し、東欧諸国では反ソ的、反スターリン的な指導者は「ティトー主義者」として粛清されていった。一方のユーゴスラヴィアでは、ユーゴ共産党内部の厳しい引き締めが行われ、党員にはティトーを選ぶかスターリンを選ぶかの二者択一が突きつけられ、親ソ派(コミンフォルミストと言われた)は逮捕され、アドリア海の「ゴリ・オトク(裸の島)に送られた。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.116>
 ソ連型社会主義からの脱却を目指すユーゴスラヴィアが選んだのは、自主管理社会主義という独自路線であった。それもティトーの強力な指導力で路線化されたものであった。

ソ連とユーゴスラヴィアの和解

 スターリンの死(53年)後、ソ連との関係改善が図られ、55年にはフルシチョフらがベオグラードを訪問、ティトーと会談し「ベオグラード宣言」を発表してティトー主義批判を撤回した。56年にはフルシチョフがスターリン批判を展開し、ユーゴスラヴィアとの関係はさらに改善された。しかし一方でそれに反発した中国とアルバニアは、ソ連とユーゴスラヴィアを激しく非難するようになる。

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柴宜弘
『ユーゴスラヴィア現代史』
1996 岩波新書