マダガスカル
アフリカ東部、インド洋上の大きな島国。住民はアフリカ系ではなくオーストロネシア語族に入る。その他、バントゥー系やアラビア系の人々も渡来し、12世紀頃までに海岸部にはいくつかの小王国が成立した。16世紀のポルトガル人を始めとして、オランダ人、フランス人も拠点を設けて交易を行った。19世紀末フランス領となり、1960年に独立した。
オーストロネシア語族の渡来
マダガスカル GoogleMap
マダガスカル島に最初に定住したのはこのようなインド洋方面から渡来したインドネシア・マレーシア系の人々であったが、その後、西側のアフリカ大陸からのバントゥー系の人々が渡来して定住、さらにアラブ系の商人も交易に訪れながら拠点を築き、彼らは島の海岸部に小王国を形成していった。<以下、ユベール・デシャン『マダガスカル』、ペンローズ『大航海時代』、宮本/松田『新書アフリカ史』などをもとに構成>
スワヒリ語を使うアフリカ系の人々の渡来
インドネシア系の渡来の波は数波にわたり、13世頃まで続いた。一方、島の西側には、バントゥー系の移住者が相次いでやってくるようになった。インド洋でダウ船を使って交易を行っていた人々は、さかんに海岸部での商取引を行い、彼らの暦や公開用語のいくつかは今も残されている。12世紀頃からは、アフリカの東岸に住み着いていたアラビア人が、マダガスカル島とアフリカ本土の間にあるコモロ諸島に移住した。バントゥー系の人々などアフリカから渡来した人々はスワヒリ語を話し、イスラーム教の信仰など、新しい文化をもたらしながら、先住のインドネシア系の人々と混血していった。彼らは主に海岸部にグループを作って定住し、やがて小王国を各地に作るようになった。島の北西部のアラビア人その他の人々の入植地は、火器をたずさえた新参の渡来者たちによって破壊された。ポルトガル人の出現である。ポルトガル人の渡来
1500年、ポルトガルがインドに派遣したカブラル艦隊には、バルトロメウ=ディアス(その前の1488年にインド航路開拓の第一歩となった喜望峰に到達した航海者)とその弟であるディエゴ=ディアスの兄弟が加わっていた。カブラル艦隊はブラジルに到達した後、東に向かったが途中で大嵐にあい、ディエゴ=ディアスの乗った舟は船団から離れて喜望峰を回って漂流し、アフリカの海岸を探すうちに、マダガスカル島に逢着した。これがヨーロッパ人がマダガスカルに到達した最初である。なおディアスはさらにアフリカ東岸を北上し、ソマリア海岸まで到達した。<ペンローズ『大航海時代』p.68-71>ディアスが発見した島ははじめサン・ロラン島と名付けられたが、後にマルコポーロの記録に従ってマダガスカルとも呼ばれた。しかし本来マダガスカルという名はアフリカ東岸のモガディシュ(モガディシオ)の呼称だった。後にマダガシ(マデカス)またはマラガシ(マルガシュ)ということばがこの島の住民全体を指すのに使われるようになった。<ユベール・デシャン『マダガスカル』p.38>
ポルトガル人はしかし、島民をキリスト教に改宗させることも、アラビア人の商人を全部追いだすことにも成功しなかった。17世紀前半になるとオランダ人が島の東海岸に頻繁に現れたが、彼らはやがてケープ植民地に定住するようになった。同じ頃イギリス人も東海岸に根拠地を作ったが長続きしなかった。
フランス人の渡来
フランス人がこの島に拠点を設けたのは、1642年、フランス東インド会社の社員ブロニスが、南東部に基地を作り、翌年フォール・トーファンを創設してからである。フランス東インド会社は1604年にアンリ4世の勅許状によって設立されたとされているが、この段階での実態はよく判っていない。しかし、マダガスカルがフランスのインド進出の中継地とされたと考えられる。彼の後継者フラクールは1658年に『マダガスカルという大きな島の歴史』を刊行してその情報を本国に伝えた。しかしフランス人と現地のアンタヌシ族との関係は悪化し、キリスト教に改宗させる試みは失敗した。ラ・カーズ少佐は現地の女性と結婚してマダガスカルの諸侯の一人となり、部下の戦士を率いて島の南部の至る所を転戦した。コルベールの植民政策
1664年、フランスのルイ14世のもとで財務長官を務めたコルベールは、東インド会社を実質的に新設した(再建とも言われる)。社員のフランソワ・マルタンは米の買い付けなどを行った。しかし、フランス東インド会社の努力の対象はインドに変更されたため、マダガスカルでは後退していった。1674年にはフランスが島の南部に設けた基地フォール・ドゥーファンの駐屯部隊の半数が虐殺され、残った生存者は東方海上のブルボン島に逃れ、入植した(現在のフランス領レユニオン島)。コルベールの重商主義政策による特許会社は政府直属であって自由貿易が許されなかったので限界を迎えたとも言い得る。18世紀になると自由貿易主義が台頭し、1719年には東インド会社は解散し「インド会社」に統合されていく。そのためマダガスカル周辺でも海賊の活動が活発になった。フランス人はブルボン島を拠点にたびたびマダガスカル東海岸の拠点を再建しようとしたがいずれも失敗した。代わってモーリシャス諸島を拠点としたイギリス艦隊の活動が活発になり、フランスの商業拠点は次第にイギリスに奪われていった。
マダガスカル王国の形成
マダガスカルへのヨーロッパ人の入植は海岸部に限られていた。その中央に南北に連なる高原地帯は、きびしい断崖で隔てられていたこともあって古来のマダガスカル人(インドネシア系)の人々がいくつかの王国を形成していた。その中の一つメリナ族は18世紀の後半にナンプイナという王のもとで有力になり、高原地帯を中心に島の北東海岸までを支配するメリナ王国となった。ナンプイナ王は一種の絶対王制を敷き、征服した集落の捕虜を奴隷としてヨーロッパ人の奴隷商人に売り払い、引き換えに鉄砲と火薬を手に入れた。19世紀初めまでにメリナ族の支配はほぼ全島に及び、ナンプイナ王の子、ラダマ1世は1817年にマダガスカル王と称した。タナナリブを都とした王は島内の小王国を次々と征服、残っていたフランスの商業拠点も接収した。<ユベール・デシャン『マダガスカル』p.43-44>フランスの保護領となる
マダガスカル王国には19世紀初め頃からイギリスが接近し、「マダガスカル王」ラマダ1世を主権者として条約を結び、実質支配を狙った。それに対してフランスはルイ14世時代以来のマダガスカルとの関係を理由に異議を唱えた。この英仏の対立はマダガスカルの王位継承に影響を与え、国王が暗殺されるなどの混乱が起こった。フランスではマダガスカル併合の声が強まり、1882年にフランスはついに艦隊を派遣してマダガスカルを砲撃した。この武力行使によってフランスはマダガスカル王国の外交関係のすべてを代表する権限を認めさせ保護国化を図った。フランスは条約では「保護領」という用語をいっさい使わなかったが、実質的に保護権を獲得したと考えていた。それに対してマダガスカル側は条約の付帯条項でフランスの保護権は制限されていると解釈して、異議を申し立てた。フランス語とマダガスカル語の条約原文の曖昧さに起因する解釈の違いであるが、曖昧さを「まやかし」にして実効支配しようとする例はアフリカの他の地域にも見られた。この場合はマダガスカル側にイギリスがついていたので、マダガスカル側も引かず、議論はその後も続いた。結局英仏両国は1890年に協定を結び、イギリスはフランスのマダガスカル保護領化を承認する代わりに、フランスはイギリスのザンジバル保護領化を認めることで決着した。フランスはさらに1894年、王国の財政困難からくる危機に乗じて正式に保護領化を提示、国王が拒否すると再び武力を行使し、1895年には抵抗する宰相を島外に追放し、王国を解体してしまった。<『新書アフリカ史改訂新版』p.471-473>これはアフリカ・アジアでよく見られる、19世紀後半の帝国主義国間の支配権分割協定であり、アフリカ分割の典型的な一例であった。
独立の達成
マダガスカル人のフランス帝国主義による支配に対する抵抗は続き、1896から1935年にかけてたびたび島内各地で反フランス暴動が起こった。マダガスカル人の抵抗には、ヨーロッパ人がキリスト教信仰を広めることで支配を強化したことに対する反発があった。王国支配者が西洋人に同調してキリスト教に改宗したことに対し、民衆は伝統的な祖先崇拝などの宗教を守ろうとする傾向が強まった。20世紀にはフランスの植民地支配に反対し、フランス人排斥を目的にする結社が結成され、非合法化されながら抵抗を続け、厳しく弾圧されたことによってかえって民族意識が強まり、民族や宗教を越えたマダガスカル人としての権利意識に目覚めていった。第二次世界大戦後は世界的な民族独立の動きが刺激となって、1947年から翌年にかけての反仏暴動では約8万の犠牲者をだしながら、1958年にはフランス共同体内の自治領として認められ、1960年の「アフリカの年」に完全独立を達成した。1975年には国名をマダガスカル民主共和国に、さらに1992年にはマダガスカル共和国に改称した。<『新書アフリカ史改訂新版』p.474-476>