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コルベール

フランスのルイ14世に仕えた財務総監で重商主義政策を推進した。1664年、東インド会社を再建、インド・アメリカ大陸への進出を主導した。

コルベール

Colbert 1619-1683
クロード=ルフェーヴル画

 コルベール Colbert 1619~1683 はフランス・ブルボン王朝全盛期のルイ14世絶対王政を支えた財務総監(財務長官、大蔵大臣)。ラシャ商人の息子にすぎなかったがマザランに仕えて頭角を現し、その死後、1662年前任者フーケが国費乱用と収賄の罪で失脚した後の財務長官となった。コルベールが展開した典型的な重商主義政策を推し進めたので、その経済政策をコルベール主義とも言う。その政策は重商主義でも貿易差額主義と言えるものであった。

Episode 「りす」と「へび」の決闘

 コルベールの前任の財務長官ニコラ=フーケもマザランの片腕として頭角を現した人物だった。彼は財政・法律・外交に長じ、弁舌家であり、学芸保護者であり、なによりも美女と壮麗な建物を好んだ。あるときフーケはその大邸宅にルイ14世を招いた。王のご機嫌を取ろうとしたのだが、ルイ14世はかえって屈辱と脅威を感じた。フーケの豪勢な暮らしは、国費乱用と収賄によって得たものだった。財務長官の補佐官に任命されたコルベールは密かにフーケの不正の証拠を集め、1661年9月、フーケは逮捕された。三年続いた裁判で、コルベールは証拠をねつ造するなどあらゆる手を使ってフーケを追い詰めた。宮廷ではフーケの紋章「りす」(それには「登れないところがあろうか」と銘句がついていた)とコルベールの紋章「へび」との決闘と評していた。1664年、フーケは終身禁固に処せられ、翌年コルベールは財務長官の地位についた。
 当時46歳のコルベールは、謹厳な顔つき、粗末な衣服、その冷たい性格から「北方人」とか「大理石の人」ともよばれた。早朝5時半には部屋に現れ、休息もとらず、快楽も求めず働くこの男はフランスにとって誠に得がたい富をもたらした。<大野真弓責任編集『世界の歴史8』1961初版 現在は中公文庫 p.230>

重商主義政策

 コルベールは輸出を奨励して国内産業を保護する、典型的な重商主義政策を推進し、ブルボン絶対王政の繁栄をもたらした。具体的には従来の毛織物・絹織物・絨毯・ゴブラン織などの産業に加えて、兵器・ガラス・レース・陶器などの産業を起こし、国立工場を設立し、特権的なマニュファクチュアを育成した。その一方では労働者の同盟とストライキは禁止された。
海外進出 インド、北アメリカ、中米、アフリカなどに植民地を獲得した。北アメリカにはミシシッピ川流域に広大なルイジアナ植民地を開発した(ミシシッピ川は一時コルベール川といわれた)。中米ではアンティーユ諸島にタバコ、綿、さとうきびの栽培を黒人奴隷によって行った。またインド経営のために1664年フランス東インド会社を創始した(再建ともいう)。同年、アメリカ新大陸との貿易を専門とする特許会社としてフランス西インド会社も設立している。
文化の保護 コルベールはアカデミー=フランセーズに対する財政援助を行い、文化の保護にも熱心だった。1666年には「王立科学アカデミー(フランス科学院)」を設立し、別に「王立芸術アカデミー(フランス芸術院)」も創設した。
コルベール主義の限界 コルベールの重商主義政策によって得られたフランスの富はヴェルサイユ宮殿の建造などに充てられ、ルイ14世の栄華をもたらした。が、またルイ14世の宮廷生活と対外戦争で浪費されていった。コルベールも晩年はルイ14世宮廷の濫費に苦言を呈したが、1683年のコルベールの死後、ルイ14世は歯止めを失い、更なる対外戦争であるファルツ戦争スペイン継承戦争へと進み、1685年にはナントの王令の廃止に踏み切ってフランス産業は停滞の時期を迎える。
 またコルベールの重商主義政策に対して、18世紀になるとその商工業重視と保護貿易主義を批判し、農業を国富の根幹とたうえで自由貿易を主張するケネーが『経済表』を著し、重農主義を展開するようになる。またイギリスは先行して自由貿易主義に転換し、重商主義の時代は終わることとなる。

コルベールと植民地

 西インド会社を創設し、西インド諸島を植民地とし、17世紀の重商主義による典型的な植民地経営を行ったのがコルベールであった。フランスからではなく、西インド諸島側からコルベールについて論じた、西インド諸島出身の歴史学者エリック=ウィリアムズの説明を見てみよう。
(引用)オランダの商業独占打倒をめざす戦争の体現者を取り上げるとすれば、ジャン・バプティスト・コルベールを措いてほかにあるまい。彼は1619年、フランスの商人および官僚を輩出した由緒ある家系に生まれた。枢機卿マザランといえば、1661年にその生涯を閉じるまでルイ14世の治世初期に事実上フランスを支配した人物であるが、早くから有能であったコルベールはまもなくこの人物の目にとまることになる。こうなれば、国王の愛顧を得るにもさして時日を要しなかった。マザランが亡くなると彼は財務総監に任命された。三年後には建築・聖像協業総監となり、1655年には会計総監、1669年には海軍大臣となって植民地の司法権をも握った。この結果、軍の統帥権を除くほとんどすべての主要行政部門の実権が彼の一身に集中したのである。したがって、1683年に亡くなるまで、事実上彼はフランスの支配者であったといってよい。こうしてコルベールこそは、17世紀植民地体制の記念碑であり、象徴でもあったのである。<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 2014 p.46>
 コルベールは、1664年、商業戦争遂行のための「軍隊」として自らフランス国内に組織した二つの貿易会社であるフランス東インド会社フランス西インド会社に全世界を分割し、前者には東半球を、後者には西半球を支配させた。これは1494年にローマ教皇がスペインとポルトガルの両国に世界を分割したこと(トルデシリャス条約)に匹敵する。
コルベールの植民地体制 コルベールの思想からいえば、植民地体制は次の三つの基本的要件を満たすべきものであった。
  • 植民地はフランスの貿易網の不可欠な核になるべきである。そのためには本国のマニュファクチュア製品、西アフリカの奴隷、西インド諸島の砂糖、綿花、タバコなどを結ぶ市場からオランダ商船を排除しなければならない。
  • 植民地は本国が独占的な領有権の行使できる場でなければならない。そのためにはオランダ商船をフランス植民地から排除する「排他主義」をとる。
  • 植民地の利害は本国のそれに従属させられなければならない。つまり、植民地は本国にとっての市場、原料供給にとどまるべきであり、独自に産業を興して本国の産業を圧迫することがあってはならない。

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大野真弓編
『世界の歴史8』
1961初版 現在は中公文庫