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ゲバラ/チェ=ゲバラ

アルゼンチン生まれの革命家。カストロに協力してキューバ革命を成功させ、後に南米各地で革命運動を指導。1967年にボリビアでゲリラ戦を展開中に殺害された。

ゲバラ・ポスター
Ernest Che Guevara
1928-67
 エルネスト=チェ=ゲバラは1928年、アイルランド系の父とスペイン系の母をもち、アルゼンチンのロサリオ市に生まれ、ブエノスアイレスで医大を卒業。少年時代から喘息に悩んでいたので「アレルギー性疾患について」という論文で博士号をとった。医学生時代の1951年から友人とオートバイで中南米を放浪、ペルーのマチュピチュでインディオの文化を知るとともにその悲惨な生活に衝撃を受けた。医大卒業後、当時のペロン政権の軍医強制徴兵を嫌ってアルゼンチンを飛び出し、亡命者としてボリビアの革命集団と交わる。革命政権がクーデターで倒されると54年にはグアテマラで革命に加わるが、アメリカ軍の介入で革命は失敗し、ゲバラはメキシコに逃れる。そこで医者として仕事をしながらマルクス主義を学んだ。

キューバ革命に参加

 メキシコシティでキューバから亡命していたカストロと知り合い、そのキューバ解放の理念に同調して、軍医としてキューバ解放の戦いに参加することとなった。キューバ革命では革命政府中枢に入り、国立銀行総裁としてアメリカの砂糖輸入割当廃止などの難局にあたり、ついで工業相ととしてキューバの工業化を図ろうとした。また革命政権のナンバーツーとして世界各国を訪問、経済支援を要請した。政府中枢に入っても彼は粗末なアパートに住み、射撃訓練を続け、外国訪問もベレー帽にヒゲに戦闘服というスタイルを通した。59年には来日、池田通産相と会談し、広島を訪ねている。64年には国連総会で大国批判の演説を行い、第三世界の社会主義化の先頭に立った。しかしゲバラの工業化路線に対し、ソ連はキューバを砂糖生産優先を押しつけたため、それを受け入れたカストロとの間に次第に意見の齟齬がみられるようになり、工業化も失敗した。またキューバ危機でアメリカの脅しに屈し、キューバ政府に相談もなくミサイルを撤去したソ連に対して不信感を持つようになった。

アフリカからボリビアへ

 1965年4月、カストロに訣別の手紙を残して突然姿を消したゲバラは「ゲリラ戦争による世界革命」を夢見てアフリカに渡り、アルジェリア戦争後のFLNのベン・ベラと会談、コンゴ動乱に加わりルムンバ死後の政府軍を指導した。しかし冷戦下の複雑なコンゴ動乱の政治対立にいやけがさしたのか、キューバに戻った。カストロは1966年にソ連批判に転じてゲバラとの関係も修復し、南米の革命根拠地作りのため、ゲバラをボリビアに派遣した。

世界革命に散る

 当時ボリビアはバリエントス軍事政権がアメリカのCIAの支援の下で錫鉱山などを支配していた。ボリビアに潜行したゲバラはゲリラ部隊を組織し、反政府活動を展開し、ボリビアのベトナム化をめざした。しかし約11ヶ月の戦闘の後、政府軍によって捕らえられ、1967年、銃殺された。
 ゲバラのボリビアでのゲリラ戦は彼がつけていた日記が密かにキューバにもたらされ、『ゲバラ日記』として公刊された。彼は民族や国家を超えて世界革命を追い求めた革命家だった。なお彼は自らをチェと名乗ったが、それはアルゼンチンで人に話しかけるときの「ねえ」という意味で、彼が議論のときいつも使っていたのでキューバで付けられたあだ名だった。<ゲバラ『ゲバラ日記』1969 角川文庫版 訳者高橋正の「ゲバラ小伝」による>

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ゲバラ/高橋正訳
『ゲバラ日記』
1969 角川文庫