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米中関係の改善

ベトナム戦争の有利な終結を模索したアメリカが、それまでの中国敵視政策を改め、接近をはかり、1972年のニクソン訪中、79年の米中国交正常化を実現した。

 1969年一月に就任したニクソン大統領は、キッシンジャー大統領補佐官とともに、泥沼化したベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を真剣に模索し始めた。同時に強大化するソ連の軍事的プレゼンスを前に、冷戦枠組みの再編成が必要と認識するようになり、中ソ対立の亀裂にその糸口を見るようになった。

ピンポン外交

 水面下の交渉を重ね、1971年に重大な転機を迎えた。4月には名古屋での世界卓球選手権大会終了後、アメリカチームを北京に招待、いわゆるピンポン外交を行った。1971年7月、秘密裏にパキスタン経由で北京入りしたキッシンジャーは中国の国務院(内閣)総理周恩来と会談を行い、翌72年の早い時期にニクソン大統領が訪中することで合意した。1971年7月15日にこの計画が米中の当局から突如として世界に流され、世界に衝撃を与えた。まさに「ニクソン・ショック」と呼ばれるほどの衝撃であった。特に日米安保条約によって対中国では日米はパートナーと考えていた日本にとっては裏切られた感は強かった。さらにアメリカと軍事的に強い結びつきを持ち、中国と対立していた台湾にとっても大きな打撃として受け止められた。 → アメリカの外交政策

国連中国代表権問題の解決

 それから3ヶ月後の1971年10月には国連で、中華人民共和国を中国代表として国連に迎える「アルバニア案」が賛成多数で通過し、中国の国連代表権問題も一気に解決した。この結果、中華民国政府(台湾)は国連の中国代表権を失い、国際連合から追放された。

ニクソンの訪中

 ついで1972年2月21日ニクソン大統領の訪中が実現し、毛沢東と会談し米中共同宣言を発表した。
 最終的には1979年1月1日に正式な米中国交正常化が行われる。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>

米中接近の事情

 両国には次のような両国の思惑があった。
・アメリカ側=ベトナム戦争の泥沼状態から脱却し、新たなアジア戦略を構築する。
・中国側=中ソ対立が依然として続いており、アメリカと接近してソ連を牽制する。

米中接近の影響

 またアメリカと中国の接近は、ベトナム戦争を終結させる前提となり、1973年1月27日べトナム和平協定(パリ和平協定)が成立、同年3月、ニクソン大統領はアメリカ軍の撤退を開始して1973年3月29日までに完了させた。1975年に南べトナム解放民族戦線によってサイゴンが陥落し、ベトナム戦争は終結した。アメリカとの厳しい戦いを勝ち抜いたベトナム社会主義共和国は、アメリカに接近した中国に不信感を持つようになり、ソ連との協力関係を強める。それによって中国とベトナムの対立へと向かい、1979年の中越戦争に発展する。
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