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シラク

フランスの第五共和政で社会党ミッテラン大統領に次いで、保守派として大統領となった。在任1995~2007年。

 シラク Jacque Chirac (1932~2019)は官僚出身で、ド=ゴールに近い心情を持つ保守派。ポンピドゥー大統領に見出され、ジスカールデスタン大統領下では首相を務めた。ド=ゴール派の政治組織である共和国防衛連合(UDR)党首となり、76年には共和国連合(RPR)を創設した。77年からパリ市長として実績を上げて人気を博し、86年には社会党のミッテランの下で議会選挙で勝って首相となってコアビタシオンといわれる保革共存の政治が行われることとなったが、結局はミッテランと対立して辞任した。 → 現代のフランス

保守中道と自主外交路線

 1995年に大統領選挙に出馬し、国民のミッテラン離れの流れの中で当選を果たし第五共和政大統領となった。就任直後に核実験を南太平洋で再開し、ド=ゴールにならった強国路線を示したが、国際的な非難を浴びた。ミッテラン路線の継承をねらう社会党が勢いを盛り返し、1997年には議会で社会党のジョスパンが選出されたため、ふたたびコアビタシオンとなった。
 しかし、保守中道と独自外交の理念は国民の支持を受け、2002年に再任され、国民議会選挙で同大統領を支持する保守中道連合も安定多数を占めて、安定した政権運営を可能にした。独自外交路線は、2003年のアメリカ主導によって始まったイラク戦争では、イラクの大量破壊兵器の査察を継続することを主張して、ドイツのシュレーダー首相と共に開戦に反対した。
 ヨーロッパ統合は、自ら「戦争を知る世代」としてドイツとの和解を進める立場からも積極的であった。ヨーロッパ連合(EU)の単一通貨ユーロ導入や、東欧の旧共産圏諸国のEU加盟にも主導的に働いたが、フランス国民は次第にEUの主導権の強化や拡大に疑問を持ち始めており、2005年5月の国民投票でEU憲法条約の批准が否定され、外交政策は大きくつまづいた。さらに同年秋には高い失業率と経済格差等を背景として大都市の郊外で若者による騒擾事件が連続して発生し、一挙に不安定化した。2007年5月の大統領選挙で後継に指定したサルコジが辛勝した。シラクは訪日の際には大相撲を見物するなどの日本通として知られている。2019年10月26日、86歳で死去した。

シラクの大統領演説

 1995年7月、大統領に就任したばかりのシラクは、ユダヤ人一斉逮捕の犠牲者を悼む式典で演説、それまでの歴代大統領が避けてきたフランスの責任に触れ、謝罪した。これは歴史的な演説となった。
 第二次世界大戦中の7月16日の明け方、ナチス・ドイツの占領下にあったフランスの対独協力政権(ペタンを首班とするヴィシー政権)はパリ地域のユダヤ人約1万人を一斉に逮捕、その他の国内各地で身柄拘束されたユダヤ人は8万にも上り、ほとんどが生還できなかった。戦後のフランス政府はド=ゴールからミッテランまで、この事実には沈黙を守った。それはビシー政権は正統なフランスではない、自分たちはドイツと戦ったレジスタンスを継承する政権だからユダヤ人逮捕には責任がない、という意識からであった。しかし実態はナチスにはさからえないとはいえ、多くのフランス人が自らの差別意識からユダヤ人迫害に沈黙か曖昧な態度に終始した。 → ユダヤ人絶滅政策
(引用)その沈黙をシラク氏は破った。……「私たちの歴史を永遠に汚し、過去と伝統への侮辱となる」出来事を語るのはむずかしいとしながら、「そうです。占領者の犯罪的な狂気を補佐したのは、フランス人でありフランス国家だったのです」と言い切った。……「啓蒙思想の国、人権の国、難民や亡命者をかくまう国であるはずのフランスはこの日、取り返しのつかないことをしてしまいました。自らの言に反し、守るべき人たちを処刑人に引き渡したのです」。自国の歴史への大統領の仮借のない言葉。「私たちはユダヤの人たちに対して絶対に取り消すことのできない負債を抱えています」<朝日新聞 2019/10/13朝刊 日曜に想う 編集委員大野博人>
 触れたくない自国の過ち。それを保守派の大統領が自ら語ったことに重みがある。2019年10月26日に亡くなったとき、シラクというと保守政治家、独自外交、日本びいきとしてしか論評されない中、この記事は自国の歴史を正面から見据えたその一面を伝える良い記事だったと想う。<2019.10.14記>
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