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カンボジア人民共和国

1979年1月、ベトナム軍の侵攻によって成立したヘン=サムリン政権が樹立した国家。1989年にベトナム軍が撤退、カンボジア国と改称した。

ヘン=サムリン政権

 1979年1月、ベトナム軍のカンボジア侵攻によってカンボジアに成立したヘン=サムリン政権は、カンボジア人のヘン=サムリン将軍を議長とする国家評議会を行政府として成立した国家であり、カンボジア人民共和国と称した。正式には現地語ではカンプチア人民共和国という。
 カンボジア人民共和国はソ連・ベトナムと友好関係を結び、ポル=ポト政権の一掃をはかったが、親中国派のポル=ポト派はジャングルに逃れて抵抗を続けた。
民主カンボジア連合政府 1982年7月には、シハヌークを戴き王制国家として独立を維持しようというシハヌーク派、民族派とも言われ共和制を主張するソン=サン派にポル=ポト派を加えた三派がヘン=サムリン政権に対抗して三派連立政権をつくり、「民主カンボジア連合政府」を発足させた。シハヌークはその大統領に就任した。しかし、この三派も対立が激しく、カンボジア人民共和国ヘン=サムリン政権と、三派連立政権の三派、あわせて四派がいがみあうという、複雑なカンボジア内戦が続き、さらに深刻になっていった。

ベトナム軍撤退への動き

 カンボジア人民共和国のヘン=サムリン政権はポル=ポト政権による反対派虐殺などの非人道的行為を明らかにして世界に知らせたが、一方で実質的なソ連の後押しによるベトナム軍の侵略に対する国際的非難も高まっていった。
 ヘン=サムリン政権はベトナム軍の支援で軍事的な優位を保っていたが、1980年代はソ連の社会主義経済が行き詰まり、その打破を掲げて1985年にゴルバチョフ政権が成立して、強硬な外交政策も見直されるようになると、ベトナムもその影響を受けてドイモイといわれる改革に転じ、カンボジア政策を見直すようになった。ヨーロッパでベルリンの壁の開放に象徴される東欧革命が進展した1989年、ベトナム軍はついにカンボジアから撤退、国号もカンボジア国に改めた。
カンボジア和平協定 一方でポル=ポト派も実態は壊滅状態となり、カンボジア和平の気運が高まって、1991年10月23日にカンボジア四派によるカンボジア和平協定が成立し、シハヌークを国王とするカンボジア王国が成立、ようやくカンボジア内戦は収束した。
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