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カンボジア和平協定

1991年にパリにおける和平交渉の結果として成立した「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定」。これによって1970年以来のカンボジア内戦は一応終結した。

 パリで開かれていた、カンボジア和平に関する国際会議において最終的に合意し、1991年10月23日、参加した関係19ヵ国によって「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定」が調印された。これによって1970年3月以来、20年以上続いた、四派に分かれてのカンボジア内戦が終結した。
 カンボジア和平協定の要点は、次のようなものであった。
  1. 国連安全保障理事会は、文民と軍人による国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)を設置する。
  2. カンボジア最高国民評議会(SNC)を移行期間中のカンボジアを代表する唯一の合法機関と見なす。
  3. 政治的な中立を確保するために、国連は行政機関などを直接管理下に置く。
  4. SNC議長(シハヌーク)は、SNCがUNTACに行う助言を決定する。
  5. SNC議長が決定できない場合は、決定権を国連事務総長の特別代表に委嘱する。
  6. カンボジア4派は、武装勢力の七割削減に同意する。
  7. 総選挙は、各州ごとに比例代表制で行う。
 調印国は、当事国カンボジアと、オーストラリア、カナダ、中国、フランス、インド、日本、ソ連、イギリス、アメリカ合衆国、ユーゴスラヴィア、およびASEAN諸国(ブルネイ、インドネシア、ラオス、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)の19ヵ国。
 カンボジア4派とは、ヘン=サムリン派(プノンペン政府)、シハヌーク派、ポル=ポト派、ソン=サン派。

カンボジア和平の国際的背景

 難航したカンボジア和平が、1980年代末に急速に動いた背景には次のようなことが指摘されている。
  1. 1989年に始まる東欧革命・91年のソ連共産党保守派のクーデタ失敗など一連の社会主義陣営の動揺によってベトナム、ヘン=サムリン政権が共に国際的後ろ盾を失い、内部にも深刻な財政危機を迎えていた。
  2. ベトナムは1986年にドイモイ(刷新)に踏み切り、経済政策・外交政策を大きく転換した。
  3. 中国も改革開放路線を採りつつ、政治的自由を求める天安門事件(第2次)を弾圧したため、人権問題として国際的非難をうけた。そのためポル=ポト派支持を強く主張できなくなった。
  4. フランスは、ポル=ポト派を支持したが、その虐殺行為などは認められないというジレンマに悩んでいた。和平を実現させ、旧宗主国としての影響力を回復することも狙った。
  5. アメリカは冷戦の終結に伴い、ベトナムを敵視する必要がなくなり、和平実現により、市場としてのインドシナに乗り遅れることをさけた。
  6. 日本は和平実現に主導権を発揮し、国連平和維持活動に参加して「国際貢献」をはたすという外交的成功をおさめ、併せてインドシナ経済市場への進出を狙った。
  7. ASEANは、ベトナム戦争終結によって対共産圏軍事同盟という性格から、経済協力機構へと転換していた。そのなかで、ベトナムの強大化、中国のインドシナへの介入は、いずれも好ましくなかった。いずれにも偏しないカンボジアの自立と和平は、東南アジア全体の利益につながると考えられた。
(以上のまとめは、熊岡路矢『カンボジア最前線』1993 岩波新書 p.186-189 をもとに、私見により修正した)

内戦の終結とその後

 カンボジア内戦は1970年以来、混迷の度を増していたが、1980年代後半にようやく和平の兆しが現れた。しかしそれは、主として国際情勢の変化によってもたらされたものであって、カンボジア人の対立する勢力自身が和平を望んだためではなかった。カンボジアの内戦と和平はいずれも国外勢力間の対立という世界情勢によって、カンボジア人自身を置き去りに進んだことが最大の問題点であろう。

カンボジア王国の成立

 和平協定が実行され、カンボジアは国連の平和維持活動(PKO)の一環として、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の管理下に入った。そのもとで1993年、総選挙が実施された。ポル=ポト派は選挙をボイコットしたが、大きな混乱なくシハヌークの率いる政党が第一党となり、その結果、カンボジア王国が復活しシハヌークが国王として復帰した。  
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書籍案内

熊岡路矢
『カンボジア最前線』
1993 岩波新書