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アウンサンスーチー

現代のミャンマー民主化運動の女性指導者。1989年以来、軍事政権に自由を束縛されていたが、2011年11月に解放され、国会議員として国民民主連盟を率い、2015年からは国家最高顧問として政権を握っていたが、2021年、軍部クーデターによって再び軟禁された。

ラスコー

アウンサンスーチー 2011

 1988年に起こったビルマの民主化運動が軍事政権クーデターによって弾圧されたことに反対して、民主化を求めて立ち上がり、国民民主連盟(NLD)を結成したが、彼女の言動が国家防御法に触れるとして軍によって1989年7月20日に自宅に軟禁された。自宅軟禁は1995年7月10日までつづいたが、解放後も政治活動の自由は認められていなかった。この間、1991年にはノーベル平和賞が授与されたが、ビルマを出国することはできなかった。
 その後も完全な自由を求めてビルマ(軍事政権は1989年6月、国号を一方的にミャンマーに変更した)の軍事政権に働きかけがなされ、国際世論もその解放を強く支持した。軍事政権は口実を設けて2000年に再び自宅軟禁とし、その後も軟禁と解放が繰り返されたが、完全な政治活動の自由は得られずに時間が経過した。

Episode どこまでが姓?どれが名?

 アウンサンスーチーの表記 彼女の名前を日本ではさまざまに書き表している。英語表記では Aung San Suu Kyi と書き、アウン=勝つ、サン=稀に、スー=集まる、チー=清らか、という一語ずつに意味があるので、アウン・サン・スー・チーと書く人もいる。また彼女の父がビルマ独立の父アウンサン将軍なので、アウンサン=スーチーと書くこともある。しかし、ビルマ人に姓はなく、名前だけである。従って分かち書きにする必要はなく、アウンサンスーチーでよく、彼女自身もそう表記されることを望んでいるという。<田辺寿夫『ビルマ』1996 岩波新書>

自宅軟禁からの解放

 2007年、僧侶による政府批判のデモが武力弾圧されたことを契機に、再びアウンサンスーチーの解放と民主化を求める国際的な声が高まり、それに対してタン=シュエ軍事政権は国家転覆罪の容疑で彼女を逮捕したが、執行を猶予した。ようやく軍事政権は自宅軟禁の解除を表明、2010年11月13日に解放された。政治活動の自由は認められていなかったが、アウンサンスーチー側も国家の発展に協力することを表明した。2011年2月にミャンマーは民政に移行し、2012年4月の総選挙に国民民主連盟(NLD)を率いて立候補し、当選して国会議員となった。2013年には来日し、留学経験のある京都大学などで講演を行った。

実質的な権力者となる

 2015年11月の選挙で、自ら議長を務める国民民主連盟(NLD)が圧倒的な勝利をおさめたが、アウンサンスーチーは憲法の配偶者が外国人である場合は大統領になれないという規定(彼女の夫はイギリス人のチベット学者)のために大統領にはなれず、名目的な大統領が選出された。アウンサンスーチーは実質的には自らが大統領としての権限を行使すると表明しており、国家顧問、外務大臣、大統領府大臣、教育大臣などを兼任して「実質的なアウンサンスーチー政権」となった。
ロヒンギャ問題 しかし、ミャンマー国軍との関係は依然として不透明で、政権自体も強権的な運営が目立つようになり、民主化の目標が揺らいでいるのではないかという疑念が生じている。特に2017年に発生した少数派イスラーム教徒と多数派仏教徒との対立を背景とした、ロヒンギャ(イスラーム教徒)に対する国軍の弾圧行為によって多数の難民が出た問題については、政権がその解決に動いていないのではないか、という国際的非難が起きた。
 2020年11月、ミャンマーで総選挙が行われ、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLS)が大勝して、2期目の政権を担当することとなった。しかし、憲法上の軍のさまざまな特権(国会議員の軍人枠や、軍部3大臣の独占など)は続いており、憲法改正問題、少数民族問題、そしてロヒンギャ問題と難題を抱え、困難が予想された。

NewS 再び軟禁される

 2021年2月1日、懸念された軍部クーデタが起き、アウンサンスーチーは再び監禁された。ミャンマー国内だけでなく、広く国際社会でミャンマー軍部に対する批判が高まっている。 → ミャンマー 2021年軍部クーデタ