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バーレーン

ペルシャ湾に浮かぶ島国で、アラブ湾岸産油国の一つ。2011年の「アラブの春」の動きの中で、民主化暴動があったが抑えられた。2020年、イスラエルと国交を樹立した。

湾岸で最初の産油地

バーレーン地図

バーレーン地図

 ペルシャ湾に浮かぶバーレーン島とその周辺の島々からなる島国で、1880年以来イギリスの保護領であったが、バーレーン島で油田が発見され、ペルシャ湾で最も早い1931年に石油の採掘が開始された。
 1971年にイギリスから独立。首長であったハリーファ家を世襲の王としてており、その資産を元に王家が絶大な権力を持ち、一時は議会も開催されなかったが、現在は一定の民主化が進んでいるとされている。国土は小さく、人口も少ない(123万)の小国だが、湾岸産油国の一つで経済的には豊かである。またペルシャ湾の海上ということから、国際的な金融センターとしての役割ももっている。ハリーファ家とサウード家は同じ部族の出身であることからサウジアラビア王国との関係が強く、現在ではバーレーン島とアラビア半島が橋で結ばれ、軍事的にも経済的にも結びつきを強くしている。

2011年の民主化運動

バーレーン国旗

バーレーン国旗

 「アラブの春」と言われる西アジアのアラブ諸国での民主化運動がバーレーンにも及び、2011年2月にハリーファ家の追放を求める暴動が起こった。バーレーンの特色は、支配者のハリーファ家はイスラーム教スンナ派であるが、国民の多数(56%)はシーア派であることで、宗教対立が背景にあった。バーレーン島は、17世紀にイランのサファヴィー朝に支配されていたためシーア派が大半を占め、そこに18世紀後半にカタールからスンナ派のハリーファ家が進出して支配者となったという経緯があり、支配者が少数派のスンナ派、被支配者が多数派のシーア派という関係になった。
 2001年に民主化運動始まり、翌年には議会も開設されて立憲君主政のバーレーン王国となったが、国要職や役人はスンナ派が占め、スンナ派であれば外国人でも警官に採用されることもあり、多数派のシーア派国民の不満が鬱積していた。経済不振で若者に失業者が増えて不満が増大する中、2011年2月16日夜、首都マナマの中心部真珠広場(かつてバーレーンは真珠が特産だった)に集まった群衆が「ハリファ首相は出て行け、首相は我々が選ぶ」とスローガンを繰り返した。<朝日新聞 2011年2月18日記事による>
 この動きは、チュニジアのジャスミン革命に始まり、エジプト、リビアに飛び火したアラブの春の一連の民主化運動の一つであった。この動きは、支配一族のハリーファ家と縁戚関係のあるサウード家の治めるサウジアラビア王国が軍事介入して暴動を鎮圧した。スンナ派住民も、シーア派の暴動の背後にはイランがあると警戒しており、民主化運動は全国民的な動きにはならなかった。

NewS イスラエルと国交樹立

 2020年9月11日、アメリカのトランプ大統領はイスラエルとバーレーンの国交正常化交渉を仲介し、両国が合意に達したと発表した。これは8月のアラブ首長国連邦(UAE)に続くもので、アラブ世界でイスラエルと国交を持つのはエジプト、ヨルダン、UAEについで4番目となった。バーレーンの首都マナマにはアメリカ海軍第五艦隊の司令部が置かれており、イランを睨むアメリカにとって最重要の拠点となっている。
 イスラエルのネタニヤフ首相は汚職問題で人気が低落しており政権基盤が危うくなっている。トランプ大統領は11月の大領選挙を控え、いずれも外交で得点を挙げたい思惑がある。アラブ諸国は公式にはイスラエルの1967年の第3次中東戦争での占領地の返還、東イェルサレムを首都とするパレスティナ国家の樹立を認めることを和平の条件としているが、そのアラブの大義は2000年代に入り、経済的利益とアラブ世界の分裂という現実の前に徐々に不鮮明になりつつあるようだ。 → アメリカの外交政策
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