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天動説

地球は不動の宇宙の中心にあり、太陽その他の天体は地球の周りを回っているという宇宙観。プトレマイオスによって大成され、中世キリスト教世界では絶対の真理とされた。

 メソポタミアなどに見られる原始的な宇宙観はわれわれのすむ世界を大地と理解し、天体は天空の外縁にあって、周回しているというものであった。そのような原始的宇宙観に、初めて科学的な真理の探究によって転換をもたらしたのはギリシアの自然哲学者であった。そのなかでも数を万物の中心と考えたことで知られるピタゴラスをあげることができ、彼は地球は球体であると考えた。

アリストテレスの天動説

 ギリシア哲学最盛期のプラトンと次のアリストテレスは、球形の有限な宇宙の中心に地球があることを中心とするギリシア自然哲学の体系を作り上げ、それが最も権威ある世界観として確立した。ヘレニズム時代の前3世紀にはアレクサンドリアのギリシア人学者であったアリスタルコスは、遊星の軌道は地球を中心とした円運動では解釈できないことに気づき、独自に太陽を中心において地球や月、遊星がその周りを回転しているという地動説を主張したが、アリストテレス的世界観の枠を破ることはできず、「太陽を中心として地球がその周りを回っている」という地動説はやがて忘れ去られてしまった。

プトレマイオスの天動説

地動説
ギリシアおよび中世の
天動説の概念図
A.アーミティジ/奥住喜重訳『太陽よ,汝は動かず―コペルニクスの世界』1962年 岩波新書 p.144
 ローマ時代の後2世紀になって、やはりアレクサンドリアで活躍したプトレマイオスは、アリストテレスの「地球を中心にして太陽がその周りを回っている」という天動説の体系を精密な観測データで実証しようとした。当時は望遠鏡などは用いられていなかったが、プトレマイオスは当時としては最も精密な観測機器で、天体の角度を測定したので、その説は揺るぎのないものとなり、ローマ帝国での定説となった。

キリスト教教会の天動説

 キリスト教はローマ帝国の国教となり、さらに中世ヨーロッパにおいてもローマ教会は人々の信仰だけでなく、あらゆるものの見方を規制するようになった。教会付属の学校で中心となったのは、スコラ哲学であるが、それはキリスト教の神の存在という抽象的な理念をどのようにして実体化するかと言う問題を、ギリシアのアリストテレスの体系によって解釈し直そうという学問であり、13世紀のトマス=アクィナスによって大成された。その地球中心の宇宙観はそのまま教会公認の宇宙観として定着した。また、『聖書』には所々に太陽が動いていることを示す言葉があり、その解釈から言っても天動説が正しいものと信じられていた。
 しかし、12世紀ルネサンスと言われたイスラーム世界との接触によってギリシアの文献が知られるようになると、プトレマイオスなどの観測データも利用できるようになり、ギリシア文献が刺激となって天文学が再び盛んになってきた。それは当時、ユリウス暦と実際の季節のズレが大きくなったため、新たな暦を作る必要が出てきて、そのために天体観測が盛んになったという事情もあった。また、15世紀末に始まる大航海時代は、さらに精密な天体観測の技術を発達させていっただけでなく、マゼランの世界一周の成功によって地球が球体であることが証明され、天動説の優位は揺らぎはじめていた。

近代地動説の登場

 そのような背景のもとに、登場したのがポーランド人のコペルニクスだった。彼は16世紀の初め、聖職者でありながら天体観測を続け、アリストテレスやプトレマイオスの天動説では天体の運行を正しく解釈できないことに気付き、長い間書きためた手稿を1543年、その死の年に出版した。この地動説を詳細に論じた書物は、カトリック教会だけでなくルターなどのプロテスタントからも『聖書』の記述に反する妄説として斥けられ、無視された。しかしその影響を受けたジョルダーノ=ブルーノガリレイがさらに精密な観測で地動説の正しさを実証すると、教会は危険思想と断定し、1616年にコペルニクスとガリレイの書物を禁書にした。そして、18世紀にはケプラーニュートンの精密な計算に基づく天文学や万有引力の法則の発見などによって地動説の正しさが実証されたため、天動説は完全に終わりを告げた。

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