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大秦国/大秦王安敦

166年、後漢統治下の日南郡(ベトナム)に使節を派遣したとされる国とその王。ローマ帝国の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスにあたると考えられていた。

 後漢の正史である『後漢書』に現れる国名であるが、ローマ帝国をさすものと言われている。

甘英を大秦国に派遣

 西方の諸国では、前漢の時代の大月氏以来、交渉が始まっていたが、さらにイランにあったパルティアと考えられる安息国からも使節が来て、東西の交易も活発に行われるようになった。後漢の班超は、この安息人から、さらにその西方に「大秦」という大国があって、交易もお粉荒れていることを知って、部下の甘英を派遣することにした。97年、大秦に向かった甘英は、安息国を経て条支国まで至ったが、そこで大海に阻まれて進むことが出来ず、断念した。このとき甘英が到達した条支国はシリアであろうと考えられ、大海は地中海かカスピ海で説が分かれている。甘英は大秦国に到達出来なかったが、恐らくはそれはローマ帝国の古都であったろうと考えられている。

大秦王安敦

 中国の歴史書『後漢書』に、166年、大秦王安敦(アントン)の使者が日南郡(現在のベトナム中部)に渡来し、象牙・犀角・タイマイ(海亀の甲羅)などをもって入貢した、という記事がある。この安敦は、ローマの五賢帝の一人マルクス=アウレリウス=アントニヌスであろう、と言われている。
 しかし使節が持参した産物が、いずれも南方のもので、ローマの使節であることを思わせるものは含まれていないことから、はたしてローマ皇帝の使節であったかは、疑わしい。インド洋方面の商人が漢王朝との交易を望み、大秦国の使節と称したのではないか、とされている。このことがローマ側の史料にはいっさい見られないことからも、現在ではマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の使節であることは否定的に見られている。
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2章3節 ケ.秦・漢帝国と世界