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後漢

中国の王朝。劉秀が王莽の新を倒し、25年に漢王朝を復活させた。1~2世紀に全盛となるも、豪族連合政権としての性格が強く、また外戚・宦官が実権をふるうようになって次第に衰退し、農民反乱の黄巾の乱の後、220年に魏に帝位を禅譲して滅んだ。

漢王朝の再興

 王朝の外戚の王莽は帝位を奪い、を建てたが、赤眉の乱などの農民反乱が起こり、統治能力を失った。混乱の中から台頭した漢の劉氏一族の劉秀は、25年光武帝として帝位につき、漢王朝を復興させた。これ以降を後漢(ごかん)という。中国では、長安を都にした前漢を西漢、後漢を東漢と言うことが多い。後漢は、都は長安ではなく洛陽においた。

光武帝の統治

 光武帝は27年までに赤眉の乱を鎮定し、王莽に対して自立していた地方の政権を次々と倒し、36年ごろまでに統一政権を確立させた。光武帝は王莽の時に定められた制度のすべてを廃止し、前漢の制度を復活させ、奴婢の解放、耕地・戸籍の調査、田租の軽減、郡兵の廃止などの民生安定策を実施した。
 匈奴(東匈奴)は光武帝の時代にも脅威となっていたが、48年には南北に分裂し、そのうちの南匈奴は後漢に降伏した。また光武帝時代にはベトナムの徴姉妹の反乱があったが、それを平定した。周辺世界にも安定をもたらした。当方の倭人の使いが来て光武帝に謁見したのもその晩年の57年のことだった。

後漢と周辺世界

 こうして後漢帝国は世界帝国として1世紀から2世紀初めにかけて国力を安定させ、匈奴西域諸国を服属させ、かつての漢の栄華を取り戻した。91年に西域都護となった班超は、匈奴に服属していた西域諸国を後漢に従わせることに成功し、後漢の西域への勢力拡大に努めるとともに、部下の甘英をさらに西方に派遣し、甘英はパルティアを経て地中海まで到達したとも言われている。
ローマとの交渉 この時期は地中海世界ではローマ帝国が繁栄した時代であり、166年日南郡(ベトナム)に来航して洛陽に入貢した使節を派遣した大秦王安敦とは、ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスであると考えられている。

倭人の遣使

 『後漢書』東夷伝倭人条に57年、倭の奴国王が光武帝に使いを送って朝貢し、印綬を授けられたという記事がある。倭人は中国の歴史書に現れる日本のこと。この奴国は北九州にあった国の一つであろうとされ、そのときの印綬が、志賀島で発見された「金印」であろうと考えられている。当時、弥生時代の中期にあたり、小国家の統合が進んでおり、その中の有力な国の一つが奴国であったものと思われる。また、107年の安帝の時には、倭国王帥升が、生口(奴隷か)160人などを朝貢している(同じく『後漢書』)。また2世紀の後半の桓帝・霊帝のころには「倭国大乱」となったと『後漢書』は伝えている。次の3世紀の三国時代に邪馬台国が登場する。

後漢の衰退

 後漢を衰退に向かわせたのは、外戚宦官であった。桓帝、霊帝の代になると、彼らが実権を奪い、それぞれ私利私欲に走り権力闘争を繰り返していた。中央の政治でははじめは外戚の発言力が強く、皇帝が代わるごとに違った外戚が政治に介入した。それに不満な皇帝は、側近の宦官を頼るようになり、外戚と宦官の対立が深刻となった。また、官吏は儒教の学徒が多かったが、かれらも宦官を排除しようとしてかえって「党錮の禁」によって弾圧され、政治は安定しなかった。
 また後漢時代の社会では、前代からの豪族の進出がさらに進み、一方で貧民化した農民が多く、社会不安が強まり、太平道などの新興宗教が興った。太平道に農民反乱が結びついて184年黄巾の乱が起こると、後漢はそれを抑えることが出来ず、各地の豪族勢力を糾合した魏・呉・蜀が勃興し、後漢は220年に魏の曹丕に滅ぼされた。 → 後漢の滅亡 
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ノートの参照
2章3節 キ.漢代の政治
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西嶋定生
『秦漢帝国』
1997 講談社学術文庫