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劉淵

八王の乱に乗じて自立し、304年に漢(前趙)を建国した匈奴系の武将。ここから五胡十六国の動乱が始まった。

 分裂した匈奴のうち、中国北部の山西省付近に残った南匈奴の王である単于の子孫であったので、みずからも単于の一人左賢王を名乗っていたが、匈奴の単于は代々漢の王室と通婚していたので、中国名を名のる際には漢王室の姓である「劉」を名のっていた。
 当時、五胡のひとつとされた匈奴は晋に服属し、漢民族との同化が進んでいたが、北方民族の伝統を色濃く継承しており、劉淵自身は身長1.9mあったうえ、武術を良くし、そのうえ中国の教養も身につけており、青年の時に洛陽に出て名士と交わり、尊敬を集めていたという。

八王の乱に乗じ漢を建国

 西晋の成都王穎(えい)は晋王室の八人の皇子(八王)の一人として帝位継承を狙っていたが、八王の乱が起こるとその治めた地域が匈奴の本拠地に近かったので、その力を借りるため、左賢王劉淵を匈奴の統率者に任命した。劉淵はその要請に応えて匈奴を召集、この機会に匈奴が自立することをねらい、軍隊5万人を集めると衰退されて大単于の位についた。また左国城を取って都とし、中国人も支配下に入ったので、304年10月、漢王と称して独立を宣言した。
 国号をとしたのは、現在の晋王朝を倒し、漢王朝の姻戚として漢帝国の再興を標榜したためであり、中央政府に漢王朝風の百官を定めた。

五胡十六国時代の幕開け

 この304年は、四川地方で五胡の一つ、族の李氏が成国を建てており、それとともに、五胡十六国時代の始まりを告げる出来事であった。劉淵はその後、山西省南部を勢力範囲に収めて、308年に平陽を都にして帝位についた(漢の高祖、謚は光文帝)。同じく成都王配下であった有力であった族を率いた石勒も劉淵に従い、漢人で降服するものも増えたが、劉淵は310年に業半ばにして病死した。
 その後、匈奴の漢は劉淵の弟劉聡が311年に晋の都洛陽を攻め落とし(永嘉の乱)、さらに劉淵の子の劉曜が316年に長安にいた最後の皇帝を捕らえて、晋を滅ぼした。<川勝義雄『魏晋南北朝』1974 講談社学芸文庫版 p.38,170,310>
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