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三大陸周遊記

14世紀のイブン=バットゥータの旅行記。アフリカ、アジア、ヨーロッパにまたがる記述があり、イスラーム教の隆盛、モンゴルの進出などの世界情勢を伝えている。

 イブン=バットゥータの旅行記は、その最初の日本語訳を行った前島信次氏が『三大陸周遊記』として紹介したが、正式な題名は『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』というもので、一般に『イブン=バットゥータの旅』としても知られている。前島氏の翻訳は要約であるが現在は家島彦一氏による全訳が『大旅行記』として東洋文庫から全8冊で出版されている。わたしはまだ前島氏の要約本しか読んでいないが、それでもおもしろいこと請け合いである。マルコ=ポーロから遅れること50年ほどであるが、それを上回る大旅行のつぶさな記録(すべてが正確と言うことではないらしいが)は驚きにあたいする。以下、彼が訪れた主なところを列挙しておこう。それによって現代の私たちも14世紀の世界を俯瞰することができる。<前島信次訳『三大陸周遊記抄』中公文庫BIBLO/家島彦一『イブン=バットゥータの世界大旅行』平凡社新書>

イブン=バットゥータのたどった道

 1325年(22歳) モロッコタンジールを出発、チュニスなどのマグリブ地方 → マムルーク朝のエジプトのアレクサンドリア(有名な灯台を見ている)と当時最も栄えていたカイロ(ピラミッドの秘話など)へ → パレスチナのイェルサレム → シリアのダマスクス → アラビアの二大聖地メディナメッカ → イル=ハン国治下イラクのバクダード(”バクダードは荒れたり”)、クーファバスラなど。イランのイスファハーン、シーラーズなど(スンナ派とシーア派の争いの話がある) → メッカに戻りそこから海路ダウ船で南下してアフリカ東岸のモガディシュキルワまで → 北上してアラビア東端のオマーンへ → 次いで小アジアのアナトリア高原をつぶさに廻り、コンスタンティノープル(後のイスタンブル)も訪問 → 黒海を渡りキプチャク=ハン国の大草原へ、都サライ →  中央アジアに入り、チャガタイ=ハン国治下のブハラサマルカンドなどを訪ね、アフガニスタンからインドに入る → 1333年から8年間、トゥグルク朝(デリー=スルタン朝の三番目)インドのデリーに滞在(遭遇した寡婦殉死いわゆるサティの情景、国王ムハンマド=イブン=トゥグルクの暴政などインドでの見聞が生き生きとしている) → トゥグルク朝のスルタンが、元の皇帝に使節を送ることになり、それに加わる → 途中インドの西海岸で盗賊団に捕まる → 南インド、マラバール地方のカーリクート(カリカット、中国のジャンク船が多数来航していることが出てくる) → インド洋上のモルジブ諸島(女王が統治している国でのいろいろな体験) → セイロン島(現スリランカ) → ビルマスマトラ島など東南アジアを経て、女王ウルドシャーの治めるタワーリスィーという国の話(これは安南、トンキン、フィリピンなど諸説あって今のどこか解らない) → 元朝治下の中国に入り、泉州(ザイトゥーン)に上陸、そこにはイスラーム教徒の役人や商人がたくさんいた → 杭州(ハンサー)をへて、元の都大都(ハン=バリーク)に1345年に到着、時に45歳。
 その後、1350年に故郷モロッコのタンジールに戻り、翌年はアンダルス(イベリア半島)のグラナダなどを旅行、さらに52~53年はサハラを縦断してマリ王国など黒人王国を訪ねその記録を残す。モロッコに戻り、フェズで旅行記の口述筆記をイブン=ジャザイイの協力で行う。死んだ年は68年、77年などいくつかの説がある。

イブン=バットゥータ『三大陸周遊記』の旅行ルート
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書籍案内

イブン=バットゥータ/前嶋信次訳
『三大陸周遊記抄』
中公文庫BIBLO

家島彦一
『イブン=バットゥータの世界大旅行』
平凡社新書