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トレヴィシック

産業革命期のイギリスの発明家。1804年、蒸気機関車を最初に製作した。スティーブンソンの蒸気機関車より早かったが、実用化に至らなかった。

 イギリスの産業革命期に、ワットの発明した蒸気機関を改良し、軌道の上に蒸気機関車を走らせることを思いつき、1804年に実現させた。これは、鉄道の出現の第一歩となったが、輸送機関としては実用化されなかった。本格的な蒸気機関の改良に取り組み、組織的に鉄道の営業を開始したのは、1820年代のスティーヴンソンであった。
Richard Trevithick portrait Richard Trevithick 1771-1833
Wikimedia Commons

ワットの蒸気エンジンを小型化

 トレヴィシック Richard Trevithick 1771-1833 はイギリス、ウェールズのスズ鉱山の鉱山監督の息子として生まれた。鉱山ではワットが発明した蒸気エンジンが使用されており、トレヴィシックはそれを参考に19歳で小型でより強力な蒸気エンジンを作り上げた。それは蒸気を液化して気圧を下げるのではなく、高圧蒸気でピストンを動かすもので、本格的な高圧蒸気エンジンであった。現在のようにシリンダーを水平に置いたのもトレヴィシックであった。新しいエンジンはワットのものの5分の1になり、1801年には蒸気自動車が、1804年には蒸気機関車を作った。蒸気機関車は実際に動いたものの、当時はまだパドル法による錬鉄の製造技術が一般化されておらず、鋳鉄では充分に強度のあるレールを作ることができなかったので実用には至らなかった。

トレヴィシックの評価

(引用)トレヴィシックが「蒸気機関車」の父であることは間違いない。彼はワットと戦いながら、高圧蒸気機関を乗り物に利用することに成功した。ワット型蒸気機関はニューコメン型と比べて、燃費や汎用性に優れていたが、市場で独占的な地位を得るようになると、技術革新を阻害する傾向をもった。しかしトレヴィシックは、ワット型を離れ、高圧蒸気機関の開発に突き進み、見事に実現した。それは彼の独創ではなかったが、少なくともその応用には積極的であり、蒸気自動車の試作からさらに蒸気機関車の開発へと進んだ。この点からいえば、彼は市場動向を見据えて技術革新を行ったといえる。しかしトレヴィシックは「鉄道の父」にはなれなかった。<湯沢威『鉄道の誕生―イギリスから世界へ』2014 創元世界史ライブラリー 創元社 p.111-112>

日本の鉄道普及に貢献したその孫

 ワットは高圧蒸気釜が当時の技術では危険すぎるとして警告し、さらにトレヴィシックを特許侵害で訴えたという。実際に蒸気釜の爆発が頻繁に起きており、ワットの警告ももっともであった。トレヴィシックは逃げるように1816年、ペルーに渡り、鉱山の蒸気エンジンを指導したが、そこでの事業には成功したものの、南米のスペインからの独立戦争に巻き込まれ、破産してしまった。1825年にロコモーション号を、29年にロケット号を走らせ、蒸気機関車による鉄道の時代を開いたロバート=スティーヴンソンは、27年にニカラグァに鉄道技術指導で訪れた際、貧困の極みにあったトレヴィシックを発見し、イギリスに帰国するのを助けたという。
 トレヴィシックは1833年、ひっそりと生涯を閉じたが、その精神は子孫に受け継がれ、しかも日本の鉄道建設に貢献している。孫のリチャードは日本最初の蒸気機関車860形の製造を指導し(1893)、その弟のフランシスも来日し、碓氷峠のアプト式鉄道など日本の鉄道普及に貢献した。<鈴木真二『飛行機物語』2012 ちくま学芸文庫 p.82-84>

Episode 天才肌のトレヴィシックとその末路

 リチャード=トレヴィシック(1771~1833)は蒸気機関車を最初に考案、製作した人物である。1804年に南ウェイルズの鉄工場から運河までの貨物専用鉄道のために注文を受けて蒸気機関車を造っている。1808年にはロンドンのユーストンで自作の蒸気機関車を走らせ一般市民に披露した。だが、トレヴィシックは天才肌のところがあって、この見世物があまり世間から認められないとわかると、以後蒸気機関の改良に対する興味を失ってしまった。これに反して鈍才ではあったが、他人の発明品に改良を重ね、現実の用途に合うよう愚直な努力を惜しまなかったジョージ=スティーヴンソンが栄誉を勝ち得ることになる。1825年にスティーヴンソンがストックトン―ダーリントン間でロコモーション号の運転に成功して人びとの喝采を受けていたころ、トレヴィシックは中米のコスタリカあたりをうろついており、その後もペルーで詐欺にあって帰るに帰れなくなり、スティーヴンソンとその息子から旅費を工面してもらってようやく帰国、1833年に貧窮のうちに死んだ。<小池滋『英国鉄道物語』1979 晶文社 p.21>