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鉄道

蒸気機関車を軌道の上を走らせる輸送機関。1825年、イギリスのスティーヴンソンが発明した蒸気機関車が鉄道を走る。1830年代のイギリスで急速に広がり。繊維工業から始まった産業革命の第一局面から製鉄や石炭などの工業化という第二局面に引き揚げる原動力となった。鉄道は欧米で普及、さらにイギリスなどの植民地に敷設され、19世紀中に急速に世界各地に普及した。

・ページ内の見だしリスト

鉄道(イギリス)


 産業革命の進展は、各地に生まれた工場に原料を運び、さらに製品を市場に運ぶための交通機関の発達を促した。鉄道以前にイギリスでは道路網が建設され、馬車による交通が発達していた。蒸気機関が発明されると石炭が新しい燃料源として消費されるようになりその大量輸送の需要が出てきたが、馬車ではそれが出来ないので、次いで運河が建設されるようになった。運河は大量輸送には適しているが、開削に費用と時間を要したので、さらに効率のよい運搬方法が考えられるようになり、そこに蒸気機関車を鉄道軌道の上を走らせる鉄道の開発が待たれることになった。

蒸気機関の実用化

 運輸時間の短縮を目ざして軌道の上を蒸気機関で牽引する車両を走らせるというアイディアはすでに早く1804年にトレヴィシックが考案していたが、実用化には至らないでいた。1825年スティーヴンソンの蒸気機関車が初めてストックトン-ダーリントン間を走ったが、それは石炭輸送が目的であった。乗客を運ぶ最初の鉄道営業が開始されたのは1830年マンチェスター・リヴァプール鉄道であった。その成功によって鉄道敷設は急速に延び、イギリスでは1840年代の「鉄道狂時代」が出現した。それは直ちにイギリス以外にも広がり、アメリカでは1827年、ドイツとベルギーでは1835年、フランスでは1840年、ロシアでは1837年に建設が始まった。
(引用)鉄の道路は、国々や諸大陸をよこぎって、風のような速さで、その巨大な煙の羽毛をつけたへびをはしらせ、その築堤や掘り割り、橋や駅は、一団の公共的建築物をつくりだし、それにくらべれば、ピラミッドやローマの水道や、中国の長城さえもが、見おとりがしていなかめいたものにみえた。そういう鉄の道路は、技術による人間の勝利の真の象徴であった。<ホブズボーム『市民革命と産業革命』安川悦子/水田洋訳 岩波書店 p.67-68>

鉄道開通の政治的な意義

 鉄道の開通が、産業革命の仕上げとなる重要な経済的な意義があることは容易に理解できよう。それでは1830年代のイギリスで鉄道開通がどのような政治的な意義を持っていたか考えてみよう。
 イギリスで鉄道開設が進められていた1830年代は、選挙法改正問題が国論を二分する政治的な問題であった。また産業革命によって産業資本家が力を得て、彼等の要求である自由主義的改革が次々と進められていた。それは東インド会社の営業停止や航海法の廃止奴隷貿易禁止奴隷制度の廃止などの自由貿易主義にもとづく政策である。そのような中でマンチェスターとリヴァプールの産業資本家は両市を結ぶ鉄道建設に積極的であったが、それに対してすでに造られていた運河を所有する領主や中間地の地主たちは自分たちの利権が失われるので強く反対していた。つまり、鉄道建設問題は“「土地」からの利益によって生活を維持している貴族や大地主などの保守勢力に対して、新しい科学である工業力を武器として、鉄道によるなぐり込みをかけたのが、金の力をバックとする新興ブルジョワ階級であった”のである。
 マンチェスター・リヴァプール鉄道開通の日に列車にはねられて、鉄道事故死第一号になったウィリアム=ハスキッソンは、保守党の代議士であったがリヴァプールの庶民の出身で、保守派の政治家に熱心に鉄道建設を説得し、それを実現させた人物だった。彼がその日に事故死したのは皮肉としか言いようがない。<小池滋『英国鉄道物語』1979 晶文社 p.23>

鉄道建設ブーム

 1830年に開通したマンチェスター・リヴァプール鉄道の大成功にあやかろうと、イギリス全国で鉄道設立計画が立てられた。
(引用)殊に1832年の第1次選挙法改正によって、新興ブルジョワ階級の代表たる自由党が、保守党に対して確固たる勝利を占めた後は、鉄道は成長産業と見なされ、株の売れ行きは上々、イギリス全国各地で雨後の筍のように鉄道会社が生まれた来た。1836年以後第一次鉄道新設ブームがやって来て、1836年から37年にかけて、千五百マイル以上の鉄道新設が議会で認可された。もちろん一つ一つ鉄道新設の法案が提出される度毎に、運河所有者、有料道路所有者、馬車屋などから、生活が脅かされ、既得権が侵害されるという反対がなされたのであるが、もはや怒濤のような鉄道建設ブームを抑制する力はなかった。このようにして、運河と馬車の時代は、あっという間にイギリスから姿を消して行く。<小池滋『英国鉄道物語』1979 晶文社 p.29-30>

鉄道による社会の変化

(引用)1830年から1850年にいたるまでにおよそ6000マイルの鉄道がイギリスに開設された。それらの大部分は建設活動をともなった集中的な投資の異例な二大活況――1835~7年の小規模な「鉄道マニア」と1845~7年の巨大なそれ――の結果であった。事実上1850年代までにイングランドの基礎的な鉄道網は多かれ少なかれすでに存在していた。いかなる点においてもこれは革命的な転換であった。これはそれなりに綿業の勃興よりもさらに革命的であった。というのはそれは工業化のはるかに進んだ局面を表し、既存の工業のどちらかというと小さな領分の外側でも庶民生活にかかわってくる面を代表していたからである。それは遠隔の田舎町のような所にも大都会の中心地にも及んだ。それは運動の――いや人間生活そのもの――速度を、1時間あたり数マイルで測られるものから数10マイルで測られるものに変え、鉄道時刻表はに象徴される大規模で全国的な、複雑で正確に結合する日常生活という観念をもたらした。それは他のいかなるもの以上に技術進歩の可能性をしめした。なぜならばそれはその他の大半の技術活動の諸形態よりも進歩していたと同時に普遍性をもっていたからである。・・・<ホブズボーム/浜林正夫他訳『産業と帝国』1984 未来社 p.132>

帝国主義と鉄道

 19世紀末、鉄道は全世界的な規模で広がり、人類の新しい交通機関として不可欠なものとなった。交通機関の主役の座は20世紀の後半の旅客航空機の普及までの間、鉄道であった。それはまた、帝国主義の時代でもあった。大陸横断鉄道を1869年に完成させてさらに太平洋方面まで進出することを可能にし、イギリスはインドの鉄道建設を進めて植民地インドを収奪し、ロシアは東アジアへの進出を目指してシベリア鉄道を建設した。さらにドイツの3B政策にもとづくバグダッド鉄道建設計画は、イギリスとの帝国主義的対立をもたらし、第一次世界大戦の誘因となった。日本は日露戦争でロシアから利権を継承し、南満州鉄道会社(満鉄)を設立して満州支配の足場と知った。
 帝国主義列強はその他にも、勢力圏の獲得を鉱山開発権とともに中国の鉄道建設にみられるように鉄道敷設権を従属国に認めさせていったが、やがて民族資本かが成長すると鉄道経営権も次第に現地資本に移行していった。

グローバリゼーションと鉄道

 19世紀を通じて人間の移動や貨物の輸送を促進して、世界の一体化(グローバリゼーション)に最も貢献したのが大陸での鉄道の建設と、大洋での大型汽船の就航であった。特に鉄道は、1870年代から1913年のあいだに世界の五つの大陸で急速な広がりをみせ、鉄道網が「世界システム」のなかに「周辺」を組み込んでいった。
 例えばメキシコでは、鉄道は1876年には650キロから1911年には2万4000キロの37倍に増加し、中国では1900年にはまだ470キロに過ぎなかったのが1913年には21倍の9858キロに急増している。しかし、中国での鉄道は列強が鉄道建設利権を求めた結果であり、沿線地域での資源の開発・独占や関税・租税の免疫特権、ときには治安維持のための警察権さえともなっており、中国の半植民地化に力を貸した。<木谷勤『帝国主義と世界の一体化』1997 世界史リブレット40 山川出版社 p.31>

参考 鉄道のゲージ

 イギリスのストックトン=ダーリントンおよびマンチェスター=リヴァプールの鉄道のゲージ(軌道の幅)はいずれも4フィート8インチ半であった。それはスティーヴンソンが製造した蒸気機関車の車軸幅にあわせたものであったが、当時、荷物の運搬に使われていたトロッコの軌道と同じであり、その起源をたどれば、古代ローマ時代の二頭だての戦車(チャリオット)の軌間と全く同じともいわれている。
 イギリスの鉄道はいずれも私営で始まり、そのゲージはかならずしも一様ではなかったが、鉄道会社の吸収や合併がくりかえされるうちに徐々に4フィート8インチ半に統一されて行き1846年には政府がそれを標準軌とすると決定して、それ以降建設される鉄道はすべて標準軌とされ、既設のレールも標準軌に改築されていった。<井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』1990 中公新書 p.7-8>
 イギリスの4フィート8インチ半の軌道は世界的にも標準軌とされ、それより幅の広いゲージを広軌、狭いものを狭軌と呼んでいる。日本の鉄道の多くは狭軌であり、新幹線のみが広軌と言われているが正確には標準軌である。鉄道が世界に普及していく過程で、地域に適した軌道が採用されたため、場所によっては異なる軌道があった。それぞれの鉄道が積み出し地と荷下ろし地を結ぶだけであった初期にはそれでもよかったが、より広い地域をカバーする鉄道網として、路線をつなげた長距離運行が求められる段階になると、ゲージの違いは著しい障害となる。いったん設置したゲージを変更するのは困難な作業なので、鉄道敷設が国家間の競争で行われるようになると、どのゲージにするかで対立が生じることが起こった。
 『鉄道ゲージが変えた現代史』(1990中公新書)を書いた井上勇一氏は、ゲージをめぐる争いを「列車は国家権力を乗せて走る」と表現している。それは満州における、シベリア鉄道の支線である東清鉄道を広軌で敷設したロシアと、標準軌で中国の鉄道網を拡げようとするイギリス、日露戦争に際して東清鉄道南満支線を狭軌にかえ、さらに南満州鉄道として標準軌に改築した日本の三者の争いに典型的に現れている。

鉄道(ドイツ)

1834年に成立したドイツ関税同盟のもとで、特にプロイセンが主導して1835年から鉄道建設が始まった。1840年代に急速に普及し、普墺戦争・普仏戦争と続いた戦争での軍事目的での敷設が急増した。

 1835年12月7日ドイツで初めての鉄道が、バイエルンのニュルンベルクからフュルトまでのわずか6キロで開通した。この時の機関車はイギリス製、運転手はイギリス人だった。鉄道の速度も最初は時速30キロに過ぎなかったが、危険であるとか、医学的見地から鉄道は廃止すべきだといった意見も出された。
 1836年には第一号国産機関車「サクソニア」号がドレスデンの近郊で製造された。1838年にはプロイセン王国のベルリン―ポツダム間、1839年にはライプツィッヒ―ドレスデン間に鉄道が開通した。1840年代には全部で469キロにも達するという急伸長であった。ドイツの鉄道建設は、1840年代のドイツの産業革命の牽引車となった。

ドイツ関税同盟と密接な関係

 ドイツ(プロイセン)の鉄道建設の必要性を説いたのは、ドイツ関税同盟(1834年)の結成にも尽力した経済学者フリードリヒ=リストだった。リストはアメリカから帰国すると、ラインラントや南ドイツの企業家から援助を受け、鉄道建設の必要性を説いて回った。彼は「ドイツの鉄道網と関税同盟はシャム双生児である。同じ時に生まれ、共に成長し、一つの同じ目標を追求していた。つまり国家の防衛手段である。」と言っている。
 鉄道の普及と共に、線路のレールの需要、機関車や貨車の需要が急増して製鉄業が急成長、蒸気機関の燃料としての石炭の需要も急増した。1837年にアウグスト=ボルジッヒが設立したボルジッヒ工場は1854年には500両の機関車を製造し、4年後には1000両を製造していた。また1826年に再開されたクルップ商会は、1834年には鉄道用車両を生産し、後には大砲も生産、1700もの工場を擁した。その他各地に機械製造業が生まれた。石炭は当初はイギリスから輸入していたが、このころはルール、ライン、ザール、シュレージェンから供給された。<阿部謹也『物語ドイツの歴史』1998 中公新書 p.197,204/鴋澤(ばんざわ)歩『鉄道のドイツ史』2020 中公新書>

ドイツ連邦と鉄道建設

 1840年代には鉄道ブームが到来、この間に路線距離は10倍以上となり全長6千キロに達した。しかし鉄道の普及はドイツ連邦というモザイク状に国土が分断されているドイツでは大きな障害となった。1848年革命フランクフルト国民議会の挫折を経て、国家統合は失敗に終わったが、50年代には、ドイツ連邦の各境を越えてドイツ語圏全土を覆う鉄道網の骨格が現れ、1851年にはドイツの南北を代表する都市ベルリンとミュンヘンが鉄道で結ばれた。当時、ベルリンとミュンヘンを結ぶ鉄道は乗り換えをはさんでまる二日かかったが、ドイツの領邦の壁を越えた連絡が可能となったことは、大きな意味をもっていた。
第二次産業革命 このような鉄道の発達は、それまでイギリスから輸入していた機関車やレールを国内で生産するために「輸入代替=国産化」という産業構造の変化をもたらし、19世紀後半になると、ドイツは第2次産業革命を牽引する重化学工業が勃興することとなった。1874年に国内の鉄道路線伸張はピークを迎える。それを可能にしたのは、ベッセマー法の導入による耐久性に優れた鉄道レールを大量に生産できるようになったことで、それを一手に担ったのが、1862年にベッセマー法の使用の占有権を獲得したクルップ社であった。

ドイツ帝国と鉄道

 ドイツの鉄道網は、ドイツ国家の統合に先立ち、50~60年代に建設最盛期を迎え、ドイツ語圏を覆う鉄道網が形成された。それを可能にしたのはドイツの鉄道が最初からイギリスと同じ標準軌道を採用したことがあげられる。普仏戦争の勝利による1871年のドイツ帝国成立までに、ドイツの鉄道網は総延長1万キロに及び、国家統一の骨組みを作っていた。1870年代初頭にはじまった鉄道路線の拡大は、80年代に入るころにはおよそ3万キロに達し、ヨーロッパ諸国でも最も密な鉄道網が急ピッチで形成され、第一次世界大戦の直前には延伸距離は最大6万キロメートルに及んだ。<鴋澤(ばんざわ)歩『鉄道のドイツ史』2020 中公新書 p.7>
軍事目的の鉄道建設 ドイツの鉄道の普及は、プロイセンの軍事的拡張と結びついていた。普墺戦争、普仏戦争でプロイセンを勝利に導いたとされるモルトケ将軍は、鉄道の戦略的意義に最も早く気がついていた。
(引用)故モルトケ元帥はかつて「これ以上要塞は建設するな。鉄道を敷け」と命令した。彼は鉄道地図を基礎にして戦略を立て、鉄道が戦争のカギである、という信条を後世に残した。参謀本部の許可なしには、あたらしく線路を敷設したり、路線を変えたりすることはできなかった。毎年動員演習をおこなって、鉄道関係の役人をしじゅう実地訓練し、電報でどの線が遮断され、どこの橋梁が破壊されたかなどを通報して鉄道交通を規制したり変更したりする能力の試験がおこなわれた。陸軍大学卒業生中もっとも優秀と見なされたものは、鉄道関係の任務に着き、しまいには精神病院に送り込まれるしまつだったという。<バーバラ=タックマン/山室まりや訳『八月の砲声』1962 ちくま学芸文庫版 2004年刊 上 p.108>

第一次世界大戦とドイツの鉄道

 ドイツの鉄道は、1840年代は私営企業として発展し、60年代末までに官営鉄道と私営鉄道が併存していた。70年代から第一次世界大戦までは、諸邦での「邦有化」が進んだがドイツ帝国のもとでの「国有化」には様々な利害が対立したため、成功していなかった。ドイツ連邦時代も南部の領邦では邦有化が進んでいたが、北西部の工業が盛んなライン地方などは私鉄営業が盛んで異なった営業形態となっていた。ビスマルクによるドイツ帝国(ライヒ)の成立後も、実はドイツの鉄道は官営と市営が混在する状態であり、帝国中央が直営する鉄道、すなわち「ライヒスバーン(帝国鉄道)」は普仏戦争で獲得したエルザス・ロートリンゲン地方の一路線に限られており、全土には及んでいなかった。帝国鉄道が簡単にはできなかったのは、例えばバイエルン王国がミュンヘンを中心とした独自の運用を主張し、ベルリン中心の運用に抵抗したことなどがあげられる。
国営鉄道の成立 ドイツにおいて「帝国鉄道」が一気に実現するのは、第一次世界大戦の敗北後であった。世界大戦は「鉄道の戦争」と言われるほど鉄道が重要な役割を果たし、特にドイツは「お家芸」として鉄道を活用したが、同時に鉄道は攻撃の対象として最初に破壊されたのであり、長びく戦闘の結果、ドイツ国内の鉄道はほとんど破壊されてしまった。ところが戦後、苛酷な負債を背負うこととなったドイツにとって、「ドイツライヒ最大の担保物権」として浮かび上がったのが鉄道業であった。共和国となったドイツの鉄道(ドイツ・ライヒスバーン)は交通省に直属する官営鉄道とされ、敗戦国ドイツが支払うべき賠償金の稼ぎ手として期待されることとなった。「第一次世界大戦の破局は、国民国家レベルで一元的に運営されるドイツ鉄道をついに成立させた。」<鴋澤『前掲書』 p.11、第9~10章>

ナチス時代のドイツの鉄道

 第一次世界大戦後に成立したドイツ国鉄は賠償金支払いという重い任務を果たしたが、1929年の世界恐慌に始まる不況から無縁ではなかった。急速に台頭し、1933年に権力をにぎったナチス=ドイツは、それまでの交通省の管理下にある独立した特殊会社として自主的に運営されていたドイツ国鉄を、官僚組織に組み込み支配した。1935年に大々的にドイツ鉄道百周年が祝われた、ニュルンベルクで開かれた記念行事の鉄道大パレードにはヒトラーが総統してして臨席した。
 ナチス・ドイツは鉄道高速化に取り組んだが、ヒトラーの構想では交通機関の主力は飛行機と高速道路網(アウトバーン)による自動車の方に意識が移っていた。しかし、第二次世界大戦が始まると、ヨーロッパ全土の前線への兵員と物資の輸送に鉄道は酷使され、おびたたしい消耗を余儀なくされた。そして戦争末期に、鉄道でユダヤ人強制収容所・絶滅収容所に移送する「死の列車」を走らせ、すべての路線がアウシュヴィッツに繋がる、ということになった。<鴋澤『前掲書』 p.244>
 ナチス=ドイツの敗北を決定づけたのは鉄道であったとも考えられる。自動車と飛行機を重視したヒトラーにとって、鉄道が死命を決するとは考えていなかったようだが、東部戦線での決定的な敗北とその後の戦時経済の機能停止は、鉄道輸送の破綻と深くかかわっていた。連合国軍の空爆はドイツの鉄道を徹底的に破壊して経済の動脈を断ったことで、ドイツ工業のエネルギー供給が途絶し、鉄道の発達によって成り立っていたドイツ産業とその国民経済を崩壊させた。

ドイツの鉄道の東西分断

 ナチス=ドイツの敗北によってドイツは分割占領され、1949年に東西に分断された国家が成立、西側のドイツ連邦鉄道(ドイツ・ブンデスバーン、DB)と東ドイツのドイツ・ライヒスバーン(DR)とに分かれて運営されることとなった。両者はそれぞれ個別の道を歩むこととなり、西側ではモータリゼーションの発達による経営難とそれに伴う民営化問題、東側では体制そのものの危機という困難を経て、1991年の東西ドイツ統一の後、1994年に庁舎が統合、民営会社の「DBAG」が誕生した。<以上、ドイツの鉄道については主に鴋澤『前掲書』をもとに構成>

鉄道(フランス)

1850~60年代、ナポレオン3世第二帝政で飛躍的に鉄道建設が進んだ。特に1850年代に飛躍的に普及した。

 イギリスの鉄道は1830年代に急速に普及し、さらにベルギー、ドイツ、アメリカで鉄道網の建設に着手されたが、フランスは大幅に遅れ、着手は40年代、本格的な鉄道網の建設は1850~60年代の第二帝政の時代、ナポレオン3世の下でサン=シモンの産業社会の考えに共鳴したペレール兄弟などによって進められた。

フランスが遅れた理由

 その一つは、ディリジャンスと呼ばれる大型乗合馬車とポストと呼ばれる郵便馬車制度がくまなく全土をカバーしていたからである。そのため鉄道の必要性が感じられなかった。第二の理由は科学者が盛んに鉄道の危険性を主張したことである。蒸気機関車の出す煤煙の有害性や、スピードの人体への有害な影響、騒音や振動による沿線地価の下落などが懸念されていた。七月王政下の1838年に政府は鉄道網建設計画を議会に提出したが、否決されてしまった。その結果、フランスでの鉄道建設は1838年のパリ~サン=ジェルマン、39年のパリ~ヴェルサイユなど郊外散策用の鉄道に止まっていた。ようやく1840年に議会で鉄道憲章が制定され、幹線鉄道建設の国家方針が定められたため、パリ~ルーアン、パリ~オルレアンの両鉄道がこの年に開通し、鉄道の時代に入った。

第二帝政下の鉄道ブーム

 第二帝政でナポレオン3世のブレーンにはミシェル=シュヴァリエなど、熱心なサン=シモン主義者が登用された。シュヴァリエはアメリカでの鉄道事業を視察し、産業の発展には鉄道の普及が不可欠であることを認識した。この時期に鉄道の建設が大きく進んだのは、それまでのロスチャイルド系の銀行が鉄道への投資に冷淡であったのに対し、新たに誕生したクレディエ=モビリエが積極的に投資を開始したからであった。1852年ルイ=ナポレオンが鉄道開発利権を99年まで延長する大統領令を発布して鉄道建設ブームが起き、1850年代がフランスの鉄道の黄金時代となった。1860年代にはロスチャイルド系銀行もクレディエ=モビリエのペレール兄弟に対して対抗的な鉄道に対する融資に乗りだし、熾烈な鉄道戦争が展開された。<鹿島茂『怪人ナポレオン3世』2004 講談社学術文庫版 266-279>
 この結果、鉄道の総延長距離は、1850年の3600kmから1870年の2万3300kmまで延長され、列車による乗客輸送は4倍、貨物輸送は10倍に達した。

鉄道(ロシア)

1851年に最初のペテルスブルク=モスクワ間が開通。広大なシベリア開発と、極東への進出を目指し、1891年からシベリア鉄道工事を開始し、1905年に開通させた。

 ロシアの最初の幹線鉄道は、1851年のペテルスブルク=モスクワ間に開設されたが、その頃から早くも広大なシベリアの東西をむすぶ鉄道建設が課題としてあげられていた。1873年に、日本海に面したウラジヴォストークを開港させており、シベリア開発と太平洋方面への進出には鉄道の建設が不可欠と考えられるようになった。
 ロシアは鉄道開設にあたって、軌道のゲージを標準軌(イギリスで始まった4フィート8インチ半のゲージ)ではなく、やゝ広い5フィートの広軌を採用した。これは標準軌を採用しているドイツが鉄道によってロシアに侵入することを警戒したためとも言われているが、結果的にロシアの広軌採用は、ユーラシア大陸に独自の鉄道網を形成していくこととなった。また、ロシアの鉄道建設は、主に蔵相ウィッテの構想になるシベリア鉄道を、フランスの資金援助で行うというものであった。シベリア鉄道の建設が進められた1890年代は、ロシアの産業革命の進行した時期でもあった。

シベリア鉄道

 シベリア鉄道の実際の工事は、西側からは1892年、ウラル山脈の東側、シベリアの西端チェリャビンスクから始まり、1898年にイルクーツクまで開通した。東側の工事は1891年にウラジヴォストークから始まり、1899年にハバロフスクまで開通した(別名ウスリー鉄道)。しかし、イルクーツクからハバロフスク間は黒竜江(アムール川)の北側を大きく湾曲し、また凍土地帯で工事が難航することが予想された。そこで蔵相ウィッテは、シベリア鉄道の途中から分岐し、清国領の満州を横断し、直接にウラジヴォストークに繋がる鉄道を構想した。

東清鉄道

 このシベリア鉄道を短縮する構想は、早くも1896年、清の李鴻章に打診ている。清はロシアが主導して日清戦争後の下関条約に対して三国干渉を行い、日本に山東半島の還付などを認めさせた代償として、ロシアが清国領内にシベリア鉄道支線を敷設することを露清密約で認めた。これが東清鉄道である。東清鉄道がロシアの手で建設されることは、満州・朝鮮方面への勢力圏拡張を可能にすることになるので、イギリス・日本・アメリカは強く反発した。
 さらにロシアは、1898年の列強による中国分割にも加わり、遼東半島の旅順・大連の租借と、東清鉄道の南満支線としてハルビンから旅順に繋がる鉄道の敷設権も認めさせた。このロシアの進出はイギリスと日本にとって共通の脅威となり、両国は1902年に日英同盟の結成、そこから日露戦争へという東アジアの基本的な対立の構図が出来上がる。ロシアの東アジアにおける鉄道拡張は、帝国主義時代の鉄道が膨張主義の重要な手段となったいった典型例となる。<井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』1990 中公新書 p.17->

鉄道(アメリカ)

1827年に鉄道建設が始まり1848年のゴールド=ラッシュを契機に、19世紀後半に急速に付設されていった。1869年に大陸横断鉄道が開通、その後路線を増やし、広大な国土の東西をむすぶ大動脈として重要な働きをした。

 アメリカでは1827年に鉄道建設が始まった。1840年代後半に急速に発展し、広大な国土に鉄道交通網が作られ、特にカリフォルニアでの金鉱発見から始まったゴールド=ラッシュによって西部開拓が推進され、人びとが西に向かって伸びていったことによって、ヒトとモノを大量に、短時間に運ぶことのできる鉄道がにわかに脚光をあびることになった。
 広大な範囲で鉄道を営業するには、その敷設に莫大な資本と資財、労働力が必要だっただけでなく、列車の運行には組織的な運営が必要であったので、会社組織は急速に近代化、巨大化していった。その代表的な例が、ペンシルヴェニア鉄道会社である。この会社は1846年に経営を開始し、1874年に営業キロ数が国内最大となった。同社は職能部門別の組織をもち、各部門の意志決定の系統を明確にして、直接に列車を運行する「ライン」と、間接的に関わる「スタッフ」の区別など、近代的な経営管理の基礎を作ったとされる。<『世界史を読む事典』1994 朝日新聞社 p.265>

大陸横断鉄道

 アメリカでは、合衆国の西部開拓の帰結として南北戦争の最中の1862年に大陸横断鉄道の建設が始まり、1869年5月に完成したことが重要である。この大工事には、多くの労働力が必要であったが、すでに黒人奴隷制は否定されていたので、黒人に代わる低賃金労働力として、多くの中国人移民が傭われた。かれらは苛酷な労働にも耐え苦力(クーリー)といわれた。 → 華僑

インドの鉄道建設

イギリス帝国主義の支配下のインドで、アジア最初の鉄道建設が始まり、全土に広がった。

 インド大反乱の前の1853年4月、イギリスはアジア最初の鉄道を、ボンベイ(現ムンバイ)とその近郊ターネーを結んで敷設した。それ以後イギリスは、インド内陸の穀物、アヘン、綿花などを積出港まで運ぶための鉄道建設を積極的に進めた。19世紀末までに2万4800マイルに及んだ。鉄道の急速な伸びは、燃料の石炭を必要としたので、炭坑の開発も進み、重工業発達の基盤となった。鉄道建設はイギリス資本によって進められたものであり、そのインド帝国支配の動脈となった。

Episode 三種類のゲ-ジが混在するインドの鉄道

 インドの鉄道総延長キロ数は世界有数の国であるが、同時にこれほと錯綜したメチャクチャな鉄道網をもつ国は他にないのではないか。インドには鉄道は広軌(1.676m)、標準軌(1m)、狭軌(0.762または1.610m)の三つの軌道は、植民地時代のイギリス本位の鉄道建設の遺産なのである。おおよその分布は、カルカッタ、ボンベイ、マドラスなど大港湾都市を起点として内陸の農産物生産地帯に向かう幹線は広軌であり、1850年代から69年までの間に、元利保証鉄道会社によって建設された。これは政府が元本を保証してイギリスで資金を集め、大陸にあっているという理由で広軌が採用されたが、建設費がかさみ、経営も放漫で行き詰まった。インド政庁は1869年に政庁直営形式に改め、建設費を抑えるために標準軌にした。さらに各地の藩王国が独自の鉄道建設を開始したが、軌道がばらばらになってしまった。<吉岡昭彦『インドとイギリス』1975 岩波新書 p.137-145>

中国の鉄道建設

洋務運動の中で鉄道が開設されたが反対運動もあって普及が遅れ、19世紀末に外国資本による建設が行われた。20世紀に入り民族資本による鉄道建設が始まり、清朝がそれを国有化しようとしたことに対する反発から1911年の辛亥革命が起こった。

 中国では長く河川と運河が物流での役割を果たしていたこともあって、鉄道への関心は低かったが、太平天国の乱も収束し、清朝の漢人官僚を中心に洋務運動が始まると、ようやく鉄道建設の動きが出てきた。中国最初の鉄道は1876年に、イギリス人によって上海と呉淞のあいだに開かれたが、政府はこの鉄道を買収して77年には廃棄処分にした。それは風水の思想などが根強く、鉄道反対の声が強かったためであった。中国最初の外交官としてイギリスに渡った劉錫鴻は、ヨーロッパ文明をじかに体験して驚嘆したが、帰国後は鉄道建設に反対した。その理由は、鉄道が墓地の風水を破壊すること、中国は治安が悪いので列車の安全な運行を保証できないなどをあげている。<菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』2005 中国の歴史10 講談社 p.68>

李鴻章

 清朝政府の洋務運動は鉄道建設に消極的であった中で、一人だけ李鴻章は、軍備の近代化とともに鉄道の本格的導入が富国強兵のために必要であると考えていた。すでに早く、1878年には唐山で採掘された石炭を天津に運ぶための鉄道建設に着手し、1881年に開通させた。これが後に北京と満州の奉天を結ぶ京奉鉄道のはじまりであるが、イギリスに資金と技術支援を仰がなければならなかったので、イギリスと同じ標準軌で建設された。この京奉鉄道建設のために雇われたのは、かつて日本の鉄道建設に従事した技師キンダーだった。この鉄道はまず山海関までが開通したが、それが奉天まで伸びることはロシアにとって警戒すべきことであった。ようやく中国でも鉄道建設の動きが本格化し、1889年には張之洞の提唱で北京郊外の盧溝橋と湖北省の漢口を結ぶ盧漢鉄道を建設し、長江の水運と鉄道を結んで江南の穀物を北京に安定的に供給をめざした。
東清鉄道 ロシアの東アジア侵出は1880年代に活発になり、その動脈として1891年からシベリア鉄道の建設に着手した。清が1894年に始まった日清戦争で日本に敗れ、下関条約で遼東半島が日本に割譲されることになると、ロシアは三国干渉を主導して日本に迫り、それを還付させた。そして見返りとしてロシアは李鴻章と交渉し、1896年露清密約を結び、東清鉄道の敷設権を清に認めさせ、それによってシベリア鉄道の迂回ルートに代わって極東のウラジヴォストークへ最短距離で結ぶルートを手に入れた。

列強による鉄道敷設

 他の帝国主義列強も中国進出を一挙に活発化させ、1898年中国分割が進行した。列強は、それぞれ中国国内の鉄道敷設権を清朝政府から認められて、外国資本による鉄道建設と営業が始まった。ドイツは山東鉄道、イギリスは香港と広州を結ぶ広九線、上海と南京を結ぶ滬寧線(こねいせん)、フランスは雲南とベトナムを結ぶ滇越線(てんえつせん)というふうに敷設権をそれぞれテコにして勢力圏を拡げようとした。この時ロシアは、遼東半島南部の旅順・大連を租借することに成功し、東清鉄道の中間点ハルビンからの支線をそこにつなげる南満支線の敷設権も獲得した。これらの列強が敷設した鉄道は、現在も中国の鉄道路線の一部として使用されている。
鉄道ゲージをめぐる争い このロシアが敷設権を獲得した鉄道は、シベリア鉄道と同じ広軌(5フィートのゲージ)であったのに対し、イギリスの技術者と資金によって建設が進んできた京奉鉄道は、イギリス本土と同じ標準軌(4フィート8インチ半)であったので繋がることはできず、これ以後、満州は鉄道ゲージをめぐり対立するロシアとイギリスに加え、朝鮮半島から鉄道を北に延ばしてきた日本(標準軌)がからんで激しく争うこととなる。
 しかしイギリスとロシアは、数度の交渉を経て帝国主義国間の妥協を成立させ、1899年4月28日に英露鉄道協定(スコット=ムラヴィエフ協定)を締結、イギリスはロシアの満州における鉄道建設を、ロシアはイギリスの揚子江(長江下流)流域での鉄道権益を互いに承認した。ただし、ロシアは、山海関から奉天につながる京奉鉄道はイギリスの借款よる鉄道であり、イギリスが利権を有することは認めた。一方、ロシアは満州に京奉鉄道と並行して広軌の鉄道を敷設し東清鉄道から直接北京に乗り込むことができるようにすることを画策したので、イギリスとロシアの対立は解消されることはなかった。
義和団の乱と鉄道 山東半島で蜂起した義和団の軍勢が、1900年6月、北京を占領すると北京の公使館員や外国人住民を保護する目的で欧米に加えロシア、日本などの8カ国連合軍は天津から救援軍を派遣した。それに対して義和団軍は京奉鉄道を破壊して阻止しようとた。さらにロシア軍の南下を阻止しようと、東清鉄道と南満支線に対しても攻撃を行った。これによって華北と満州の鉄道は各地で破壊されたが、1900年8月14日 、8ヵ国連合軍は北京を奪回して反乱軍を鎮圧した(北清事変)。この間、義和団によって破壊された鉄道の復旧は、ロシアが地の利を生かして独断で進め、事実上その占領下に入り、イギリスは強くその返還を要求し、ふたたび鉄道をめぐるイギリスとロシアの対立は激しくなった。1901年9月北京議定書が締結された後もロシアは満州から撤退せず、対立は深まったが、ロシア・イギリスはそれぞれが清と交渉し、同年10月、京奉鉄道全線は清国が管理することで決着し、イギリス人技師による工事(つまり標準軌で再建する)が再開された。京奉鉄道が奉天近郊の新民屯まで開通するのは1年後の1902年であった。<井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』1990 中公新書 p.40-49>

日露戦争

 ロシアが東清鉄道、さらに南満支線の敷設権、経営権を獲得したことは、その勢力が満州、さらに朝鮮方面にのびることになるため、日本は強く警戒した。さらに1900年義和団事件で共同出兵した列強の中で、ロシアは満州に居座ったため、イギリスと日本は1902年日英同盟を締結して提携を強め、日本はついに1904年日露戦争に踏み切った。ロシアはシベリア鉄道本線の全線開通はまだであったが、1903年7月に開通した東清鉄道と、同年1月に開通していた南満支線による兵員輸送に最大限利用し、鉄道利用が戦争の勝敗を決するカギとなった。
日本の南満州鉄道獲得 一方の日本は、日露戦争とともに朝鮮に圧力を加えて日韓協約によって保護国化を進め、朝鮮半島(半島縦断鉄道は未敷設)と海上からの兵員輸送によって満州での戦いを優位に進め、日本海海戦で勝利を占めた。ロシア軍も鉄道輸送で兵力を増強し、戦いは勝敗がつかない状況となる中、アメリカの仲介で講和が図られ、1905年9月、ポーツマス条約が締結された。日本は賠償金を獲得できなかったものの、遼東半島南部の租借権とともに長春以南の南満支線の経営権を獲得した。日本は1906年、この長春―大連・旅順間の鉄道経営及び鉱山開発を行う南満州鉄道株式会社を設立した。
桂=ハリマン覚書とその破棄 1905年10月、アメリカの鉄道王と言われたハリマンは、日本が獲得した南満州鉄道を買収しようとして来日、桂首相らと接触を重ね、まず共同経営案を提案した。桂首相らは南満州鉄道を日本だけで経営するには財政的にきびしいと考え、ハリマンの提案に乗って仮契約を締結、ハリマンは帰国した。入れ替わりアメリから日本に戻った小村寿太郎は自らが獲得した南満州鉄道をアメリカとの共同経営することに強く反対し、桂首相も諦めて仮協定は破棄された。ハリマンは直後に死去するが、アメリカにはその後も満州での鉄道建設に熱意を持つ企業家が相次ぎ、満州をめぐる日米の利害の対立はその後も続くこととなる。

鉄道国有化反対運動

 清末になると、民族資本かが成長し、利権回収運動が盛んになり、いくつかの鉄道も外国資本から民族資本の手に移った。1911年には清朝政府が外国からの借款によって鉄道国有化政策を打ち出したことが、それに反発する民族資本家と民衆を動かし、辛亥革命が起こった。

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日本の鉄道建設

イギリスの資金、技術の支援で1872(明治5)年、新橋・横浜間で開通。1886年頃から民営鉄道の建設ブームとなる。日露戦争後の1906年、産業上・軍事上の要請から国有鉄道法が成立、90%が日本国有鉄道として営業。朝鮮半島・中国大陸・東南アジアの植民地各地に広がる。1987年にJR各社に分割民営化された。

ペリー、蒸気機関車模型を手土産に 1830年にイギリスで生まれた鉄道は、フランス・アメリカ・ベルギー・ドイツに広がり、1840年のアヘン戦争の情報とともに、オランダから江戸幕府に提出された『別段風説書』によって日本にももたらされた。1853年7月に来航したアメリカの東インド艦隊司令官ペリーが、翌年に再び来航したとき、将軍に献上したのは蒸気機関車の模型だった。ペリーは横浜の応接場の裏で組み立てられ、幕府の応接係の前で運転をして見せた。それは模型だったが日本人が初めて目にした蒸気機関車だった。「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く、旋転数匝(数回)極めて快(はや)し」とは模型に乗った河田八之助の日記に記された文。江戸城でも江川太郎左衛門が将軍家定の前で蒸気機関車模型を走らせた。
英仏米の売り込み競争 幕末から明治初年に懸けて、薩摩藩などでも鉄道への関心が高まり、また日本に進出したアメリカ、フランス、イギリスの各国も日本での鉄道敷設を計画するようになった。薩摩の五代友厚は1865年にロンドンに渡り、鉱山の開発や工場の建設、商社の設立などの必要を痛感し、66年に帰国後ベルギー人モンブラン等とはかって京都~大阪間の鉄道建設を計画した。またフランスは銀行家エラールや駐日公使レオン・ロッシュが幕府にさかんに鉄道建設を働きかけた。アメリカ公使館員ポートマン(ペリー艦隊の乗組員で蒸気機関車模型を組み立てた経験があった)も江戸~横浜間の鉄道開設の特許を申請した。資金と技術のない幕府への、英仏米の売り込み競争が激しく行われたが、これらの計画は基本的には経営権を外国が持ち、鉄道敷設や運行を外国人が行って利益を上げようというものであった。
明治政府の自国管理方針 江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると鉄道敷設をめぐる利権獲得競争は、フランスが脱落して、アメリカとイギリスの間で激しい競争となった。それに対して新政府の外国官知事伊達宗城と副知事の大隈重信は日本が自国で敷設する「自国管理方針」を貫いた。それを進言したのは駐日公使パークスで、彼は日本が外国の資本や経営に依存しなくとも鉄道を敷設することが可能である、ただし鉄道敷設技術については援助すると説いた。民部兼大蔵卿伊達宗城の下で大隈重信と伊藤博文は、経済力を伸張するためには交通・運輸の発展を図り、商品流通を円滑にすることが急務であると確信し、鉄道敷設を推進すべきであると考えた。政府部内には鉄道に対する疑問、無理解とさらに反対(鉄道より海軍の充実を優先させよなどの意見)があり、意思の決定には時間がかかったが、ようやく1869年、鉄道の敷設(東京と京都を結ぶ幹線と東京~横浜、琵琶湖~敦賀、京都~大阪~神戸の各支線)を決定した。ペリーが蒸気機関車模型ももたらしてから15年が経ち、その年にはサンフランシスコからアメリカに至るアメリカ大陸横断鉄道が開通、スエズ運河も完成していた。
井上勝像

東京駅丸の内側にある井上勝像

エドモンド・モレルと井上勝 最初の鉄道として明治政府は東京~横浜間を選び、首都と開港場を結んで経済の発展を図ることを狙った。またこの路線を政府資本で建設して模範を示し、民間の出資による鉄道敷設事業がそれに続きことを期待した。1870年、建築師長エドモンド・モレルが来日、測量を開始した。明治政府の下で日本の鉄道事業の中心にあったのは井上勝(1843~1910)である。井上は長州藩士で、1863年から井上馨、伊藤博文ら5人の若者の一人として藩命でロンドンに渡り、鉱山・鉄道の技術を学び、68年12月に帰国した。1870年に新設された工部省が鉄道事業にあたることになると、工部権大丞となり、陣頭指揮に当たった。井上はまず、それまでの測量や作業にあたっていた役人が、羽織・袴に陣笠であったのを筒袖股引に改め、動作の迅速化と事故の防止にあたったという。彼は、1871年明治政府の鉄道頭に就任、以後93年まで鉄道長官を辞任するまで日本の鉄道システムの陣頭指揮を執った。こうして1872年10月15日、新橋・横浜間で日本最初の鉄道が開通した。

国際標準から外れた狭軌での鉄道敷設

 日本の鉄道は軌間(ゲージ)を3フィート6インチ(1067mm)の狭軌が採用された。イギリスなど西欧諸国は4フィート8インチ半(1435mm)の広軌であったが、建築師長お雇外国人のモレルの進言に従った。当時イギリスではゲージ論争が行われており、植民地など経済発展の遅れている地域では、敷設を安価に進められる狭軌がよい、という意見が優勢だったためであった。井上勝も、安価に路線を延長できること、山や川が多い日本の地形に合っていることから狭軌を支持した。
 しかし、日本の工業化が進むと、狭軌では輸送力の不足が生じるという批判がおこるようになり、特に日清戦争後にその声が強まった。日本が経済進出からさがらに植民地支配に乗り出そうとした朝鮮半島の鉄道は、すでに中国大陸と同じ広軌で敷設されていたからだった。井上は輸送力の不足には複線化をはかるとか、レールを三條にするなどで対応できると反論していたが、日露戦争頃には「只慚愧に堪えないことが一つある。それは我国に鉄道ができてから四十年になる、その時なぜゲージを4フィート8インチ半の広軌にして置かなかったのか、日清戦役には彼の様に勝ち、日露戦役にも彼の様に勝ち露国を満州より追い払うような進歩を我国に予期して居たならば、マサカ狭軌にしては置かなかったにと、余は全く先見の明がなかったのをすこぶる恥じている次第だ」と述べている。なお、大隈重信もモレルや井上の意見の採用を決定した当時は、ゲージに関する知識を持ち合わせておらず、のちに「狭軌にしたのは吾輩の一生一代の失策であった」と告白している。<老川慶喜『日本鉄道史 幕末・明治編』2014 中公新書 p.50-53>
狭軌か国際標準軌か 現在でも日本のJR在来線、小田急、西武など関東私鉄の多くは狭軌であり、新幹線や京急、京成、阪急、阪神などの私鉄は国際標準軌(広軌)を採用しているが、全体的には狭軌の方が多い。しかし併合された朝鮮はそれ以前から、国境を越えて列車を走らせるため広軌だった。日本でも東京ー下関間を国際標準軌にすべきだという意見が後藤新平らによって出されたことはよく知られている。その構想は、1975年に山陽新幹線が全通するまで実現されなかった。日清戦争や日露戦争で植民地となった台湾や樺太(現サハリン)でも狭軌の鉄道が敷設された。インドネシアのようにオランダ植民地時代には広軌だったのが、太平洋戦争中に日本が占領して狭軌に統一したところまである。インドネシアでは今でも狭軌用の日本の中古車両が多く使われている。インドネシア以外にも東南アジアのタイやミャンマー、フィリピンでも狭軌が使われている。この光景には、太平洋戦争の引き金となった『南進論』とつながっているように見えなくもない。<朝日新聞 2024/2/17 原武史『歴史のダイヤグラム』路線は狭軌か国際標準軌か より要約>

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