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印紙法

1765年、イギリスが北米植民地に対して出した新しい課税方式。重商主義政策の一環として植民地への課税を強めようとしたイギリスが、証書類や新聞などの発行に印紙を貼ることを義務とした税制の新設であり、言論抑圧にもつながることから植民地側が強く反発した。そのためイギリスは翌年、印紙法を廃止した。

 Stamp Act 印紙税法、印紙条令とも言う。1765年にイギリスが北アメリカ大陸の13植民地に対して制定した、証書、証券類、酒類販売許可証、パンフレット、新聞、広告、暦、カルタなどに最高10ポンドの印紙をはることを定めた法律。(大学の卒業証書にも2ポンド課税された。)特定の業種・階層の人々だけでなく、あらゆる社会階層に影響を与え、言論・出版の自由を制限する事になるので、反対運動が急速に広がった。  イギリス本国のジョージ3世のもと、国王の宣言が出されて以来、アメリカ植民地に対する課税を強め、前年の1764年には砂糖法を出していたが、この印紙法でも強い反発を受けることになった。

「代表なくして課税なし」の声起こる

 印紙法案は本国議会を通過して3月22日に制定され、11月に実施される事になったが、8月になって植民地側で反対の動きが強まり、印紙販売人が襲撃されるなどの反対運動が起こった。
 イギリス本国政府による印紙法の押しつけに対する反対運動は、植民地の抵抗運動を一段と強めただけでなく、質的な変化ももたらした。ひとつは、抗議運動が植民地の枠を越えて拡がったことであり、10月には植民地13州の議会が連帯して印紙法会議を開催した。そこで、「代表なくして課税なし」というイギリス議会の原則に照らし、植民地代表のいないイギリス議会には植民地への課税することはできないと決議し、印紙法の撤廃をイギリス政府に請願した。この正当な抗議を受けて、イギリスは翌1766年、印紙法を廃止にせざるを得なくなった。
 しかし、廃止にしたものの反発は収まらず、ついに1775年のアメリカ独立戦争に結びついていく。

「自由の息子たち」起ち上がる

自由の息子

ニューヨークでイギリス国王ジョージ3世の銅像を引き倒そうとしている「自由の息子たち」
五十嵐武士『アメリカとフランスの革命』p.86

 抗議運動が州の枠を越えて展開されるようになると共に、民衆の政治参加が一段と多くなった。ボストンの印刷業者や職人たちは8月、中央広場に「自由の木」を立てて、印紙専売人に任命されると予想された行政長官アンドリュー=オリバーの人形をぶら下げて呪い、さらに印紙法事務所の予定の建物とオリバーの自宅を焼き打ちした。
 1765年から翌年にかけて「自由の息子たち」Sons of Liberty と称するグループが北はニューハンプシャーから南はサウスカロライナに至るまで、少なくとも15結成され、多いときには数千人を動員、印紙法反対運動を展開した。ニューヨークではイギリス国王ジョージ3世の銅像を引き倒すなどの示威行為を行っている(右図)。69年からは抗議の手段としてイギリス製品の禁輸運動を行い、それには女性も「自由の娘たち」と称して参加した。
 「自由の息子たち」を指導した人物の一人、サミュエル=アダムズは独立運動の急進的な知識人の一人として、その後ボストン茶会事件を指導し、運動を明確なアメリカ独立革命に向けてリードしていく。<五十嵐武士『アメリカとフランスの革命』世界の歴史21 1998 中央公論社 p.85-89>
 彼は1774年9月の大陸会議にマサチューセッツ代表として参加し、アメリカ独立戦争に踏み切ることとなる。
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書籍案内

五十嵐武士・福井憲彦
『アメリカとフランスの革命』世界の歴史21
1998 中央公論社