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1793年憲法/ジャコバン憲法

1793年6月、ジャコバン派独裁政権の下で作られた民主的な憲法であったが、結局は実施はされずに終わった。

 フランス革命が進行し、1792年の8月10日事件の後、9月に国民公会が成立、王政廃止が宣言され、フランスは共和政国家(第一共和政)となった。それに伴い、立憲君主政を柱とする1791年憲法に代わる新憲法を制定することとなり、憲法草案が募集された。穏健共和派のジロンド派コンドルセを中心に憲法草案を作成し、急進共和派の山岳派も独自案を作成した。

ジャコバン派の憲法案

 両派は政治的にも激しく対立し、1793年5~6月に再びサンキュロットが蜂起して議会からジロンド派を追放し、ロベスピエールら山岳派がジャコバン派の主導権を握ってジャコバン派独裁政権が成立した。その結果、1793年6月24日にジャコバン派原案が共和国憲法として成立した。
 人権宣言を前文とする全35条からなるこの憲法は、1793年憲法、共和国第1年の憲法、ジャコバン憲法などと言われている。8月4日に国民投票にかけられ、180万票対1万票(棄権430万)で承認された。しかし、干渉戦争の激化などを理由に10月10日に実施は延期され、結局は実施されなかった。

最初の徹底した民主的な憲法

 主権在民を明確にし、初めて労働の権利(21条)、社会保障(22条)、反乱の権利(35条)などが盛り込まれた。 また男子普通選挙も盛り込まれた。
 このように、1793年憲法は、史上最初の徹底した民主的憲法であった。しかし、ジャコバン政権の恐怖政治と言われた反対派に対する激しい弾圧は次第に支持を失い、1794年7月にテルミドールのクーデタによってロベスピエールらが倒されたため、結局、実施はされなかった。<『資料フランス革命』 P.431、ゴデショ『年代記』 P.115>

影響

 1793年憲法に代わって三権分立を柱とした共和制憲法の1795年憲法が成立したが、主権在民や諸権利の保障、男子普通選挙などは規定されなかった。1793年憲法の理念を支持するバブーフらは総裁政府を倒す陰謀事件を1795年に起こしたが、弾圧された。しかしその後も理念としては生き続け、後の1848年の二月革命によって生まれた第二共和政憲法などの大きな指針となった。
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