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徴兵制(フランス)

1793年、フランスの国民公会で国民から兵士を徴発動員する徴兵制度を決定した。これによって中世の傭兵制度にかわる近代国家の国民軍が創設された。農村では徴兵に反対してヴァンデーの反乱が起こった。

フランス革命 革命防衛戦争の開始

 フランス革命が進行する中、王政を革命から守るための外国からの干渉が強まると、革命を防衛するための戦争が始まった。ジロンド派が主導権を握った立法議会は、1792年4月の対オーストリア開戦に踏みきり、フランス革命政権はオーストリア・プロイセン・フランス亡命貴族の連合軍との戦争―フランス革命戦争ともいう―を戦うこととなった。
 しかし、このころのフランス軍は、かつての国王軍を主体としたものだったので革命防衛には熱心では無く、各地で敗北が続き、危機的な状況となった。1792年7月11日に立法議会は「祖国は危機にあり」と各地の連盟兵(義勇兵)に訴えた(このとき、パリに集結した連盟兵の中のマルセイユ部隊が歌ったラ=マルセイエーズは後にフランス国歌となった)。山岳派のロベスピエールは、パリに結集した義勇兵とパリ防衛に応じて自ら志願したサンキュロットなどに対して立憲君主政を倒し、共和政を呼びかけた。革命情勢が再び盛り上がる中、ブルボン王家がオーストリアと内通しているという疑いが強まり、激昂したサンキュロットらがチュルリー宮殿を襲撃する8月10日事件(第二革命)が起こり、それを受けて立法政府は解散した。
 フランス革命は1792年9月20日に、新たに男子普通選挙で選出された国民公会が召集され、新たな段階に突入した。折しもヴァルミーの戦いでのフランス軍の勝利の報告がもたらされ、革命は大きく前進することとなった。

革命防衛戦争の展開

 ロベスピエールらジャコバン派はサンキュロットの支持を背景に、国民公会で急進的な改革を推進した。1793年1月ルイ16世処刑を実行、さらにフランス軍のベルギー占領などにたいして、イギリスを中心とした対仏大同盟(第1回)が結成され、イギリス・オランダ・スペインなどに対して宣戦布告し、フランスはほぼ全ヨーロッパと戦うことになった。

フランス革命戦争 国民軍の形成

 このような戦線の拡大に対して国民公会は戦時体制、兵力の確保に迫られた。1793年2月21目の正規軍と義勇兵の統合(アマルガム法という)に始まり、2月24日には「30万募兵法」を布告した。これは満18歳以上40歳までの未婚または子のない寡夫が対象とされ、30万人に達するまでいつでも徴兵に応ずるように待機しなければならない、というものだった。
 ついで、同年8月23日には「国民総動員令(国民総徴兵法ともいう)」が成立、18歳から25歳までの青年男子全員を動員し、百万人規模の国民皆兵の態勢に入った。この国民皆兵体制の創設には公安委員会のサン=ジュストとカルノーがあたった。さらに1798年にはより整備された徴兵制度が成立する。

徴兵制の意義

 絶対主義諸国間の戦争は、主として君主が金銭で兵士を雇ってくる傭兵で戦われていた。戦争は国民とは関係のないところで行われていたわけで、各国の将軍たちも戦闘も全面的な対決を避け、いかに戦わずして相手を威圧するかを作戦の主眼にすえ、実際に戦闘が行われても、傭兵は不利とみると戦場を勝手に離脱してしまうことが多かった。そのような傭兵主体の戦いの様相を一変させたのが、フランス革命で登場した徴兵制による国民皆兵の軍隊であった。彼らは個人的な損得ではなく、国家や革命の存続を担って、戦争に従軍し、しかも全面的な戦闘を挑んだ。このような徴兵による近代的な常備軍の制度はフランス革命期から始まる。
 フランスはこうして傭兵や志願兵に依存するのではなく、国民を徴兵によって動員する国民軍を編制することで革命防衛戦争を優位に転換した。しかし、国内では1793年3月にフランス西部で徴兵制に反発した農民によるヴァンデーの反乱がおこったので、革命政府は厳しくそれを弾圧した(後述)。
フランス革命の戦争観 フランス革命防衛戦争が開始された後、1792年4月には「戦争に関する宣言」を発表し、革命憲法の諸原則に忠実に征服戦争を否定し、人民の自由に対して武力に訴えず、自己の自由と独立の防衛のためにのみ武器を取ることを宣言した。また同年5月に立法議会は「捕虜の取り扱いに関する宣言」を出し、捕虜は特別の保護のもとにあることを宣言、その前文で1789年の人権宣言と結びつけて捕虜の自由に対する制限は捕虜が再び武器を取ることを妨げる手段としてのみ合法であるという原則を打ち立てた。さらに捕虜を非人道的に取り扱った罪を負うものは処罰されなければならないと定めた。これらの戦争観、捕虜規定は、従前の絶対主義時代の無差別戦争観を否定して、国民主権に基礎づけられた新しい戦争観として示された。<藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.4>
 また、この新しい戦争観は、それまでの傭兵を主体とした戦争から、徴兵された国民兵によって戦われるという戦争方法の根本的転換をもたらした。また海戦においては、私掠船(海賊)の禁止の動きなどが現れた。 → 主権国家体制
革命軍=国民軍の性格 革命政府は国民軍内部の体罰や身分差別を撤廃し、革命軍としての戦闘意欲を高めることに成功した。また能力本意で将軍を抜擢し、貴族出身の将校は退けられ、兵士の選挙で才能あるものが昇進し、有能な下士官から公安委員会が将軍に抜擢した。その中から、オシュ、ジュルダン、ネイ、そしてナポレオンなどの名将が出現することになる。

徴兵制に対する抵抗

 フランス革命での強制的な兵士徴募には、革命気運の高まっていた都市では受け入れられたが、都市から離れた農村部では反発が強く、「30万募兵法」に反発したヴァンデーの反乱などが起こり、革命政府はその鎮圧に苦慮した。このヴァンデー地方の農民反乱は反革命の運動の一つとして1793年3月に始まり、12月にはほぼ鎮圧されたが1798年ごろまでくすぶり続けた。ヴァンデーの農民が革命政府の徴兵制に反対したのは、それが封建的負担よりも重く、生活を破壊するだけでなく、徴兵制そのものが金銭での代行を認めたり、官吏は免除されているなど、ブルジョワを優遇し農民を差別していると捉えたからであった。徴兵制を知ったヴァンデーの農民がそれをどう受けとったか、次のように描かれている。
(引用)30万募兵令のニュースがショレの町に届いたのは93年3月2日土曜日のことだった。土曜日は牛の市の日でもあり、近隣の町や村からも大勢の人が集まっていた。徴兵にあたっては、金を出せば代理人ですますことが出来たり、すべての役人という役人は無条件で兵役が免除される、などの不満が語り合われていた。翌3日、日曜日になっても、近隣教区の若い農民たちで居酒屋はいっぱいだった。だれも、12日に実施される徴兵のことが心配だった。多少のワインの助けもあってか、彼らの頭は熱くなっていた。多くの若ものたちが声高に強い口調で、自分は徴兵には応じないと宣言した。これまで国家や都市の権力に服従してきた慣習の中に、はじめて亀裂が生まれていた。<森山軍治郎『ヴァンデ戦争――フランス革命を問い直す』1997 筑摩書房 p.66-67>
 3月4日、ヴァンデ地方の中心、ショレの町の広場で農民と国民衛兵がヴァンデーの反乱につながる最初の衝突を起こした。農民の反乱は、領主層・聖職者と結びつき、反革命の「反乱」とされている。

ナポレオン戦争時代の兵士

 ジャコバン政権がテルミドールのクーデタで倒され、総裁政府が成立すると、その配下の軍人として台頭したのがナポレオンであった。1796年、ナポレオンの率いるフランス軍はイタリア遠征を敢行し、翌年、カンポ=フォルミオの和約で終結する。しかし、ナポレオンのヨーロッパ制覇の野望は再びナポレオン戦争として再燃して、戦乱は1815年まで23年間続き、ヨーロッパの国家のあり方と地図を塗り替え、「近代」へと時代を進める出発点となった。

ナポレオン軍

 フランス革命で始まったフランスの徴兵制は、革命戦争から引き続いて起こったナポレオン戦争でさらに拡充された。革命に対する干渉軍との戦いの中から国民意識が醸成され、国民皆兵の思想のもと、徴兵制がその手段として用いられ、徴発された兵士はナポレオンの帝国支配を全ヨーロッパに及ぼそうという野心のために“消耗“していった。特に1812年のロシア遠征は、徴兵によって動員された多くのフランスの若者がプロイセンやポーランド、敵であるロシアの兵士とともに多数が犠牲となる無益な戦争であった。
 ロシア遠征時のナポレオン軍・フランス軍の徴兵制および兵士がどのような状況であったは両角良彦氏『1812年の雪』に描かれているので、長くなるが引用、紹介しておく。
(引用)フランスの徴兵制はもともと革命の産物であって、1793年2月14日と1799年8月25日の執政政府命令によって制定された。兵役義務は20歳から25歳の壮丁に課し、平時は5年、戦時は無期限となっていたが、後に兵員不足のため18歳に繰り下げられた。
 適齢者のうち徴兵される者は、町村役場で軍楽隊の演奏も賑やかに行われた籤引きで選ばれた。籤に当たる率は当初は農村で15人に一人、都市で7人に一人の低率だったが、歴戦により兵力補充が緊要となるにつれ、次第に高率となり、1813年にはもはや単なる形式に化し、殆どの壮丁が当たるようになる。
 籤に当たった者の身体検査では、1メートル54センチ以上はすべて合格とした。身体の故障を訴える者は厳格な審査委員会の確認を経なければならない。
 軍隊に入れば、生きて還る確率はまず三分の一と見られていたから、人々は知恵をしぼって召集をのがれる方策を講じた。最も簡単なのは、既婚者は兵役義務を免除されるというので、慌てて結婚するやり方で、18歳の男子が60歳の女性と結ばれた例さえある。
 若者たちは自ら肉体を損なうことさえやってのけた。例えば前歯を折ったりしたが、当時の先込め銃では鉛弾と火薬は分かれており、装填には火薬の紙包みを歯で食い破るのだが、前歯が欠けてはそれができない。また親指を切り落とす者もいたが、これで銃の操作はやれなくなる。発泡薬で腕や腿の皮膚を傷け、そこに砒素をとかした湿布を当てて筋肉を麻痺させるやり方もあった。自ら足を折る者、甚だしきは片目を潰す者さえ現れた。徴兵逃れといっても、それは生易しいものではなかった。
 金持は大金を投じて医師を買収し、内科的な疾患の証明書を手に入れたり、役場の書記から年齢を偽った戸籍証明を交付してもらった。中にはにせの死亡証明の発給を受け、本人を逃亡させて、家族、親族はもっともらしく葬儀を営んだりした。
 ひとたび応召と定まると、入営を逃れるには二つの方法しか残らない。替え玉を傭うか、逃亡するかである。……<両角良彦『1812年の雪―モスクワからの敗走』初刊1980 筑摩書房 p.18-21>

Episode フランスの「血税」

 フランス革命の最中、1792年にニースはフランス領になった。革命政府は1793年に徴兵制を定め、ニースに対しても義務徴兵制が導入された。サルデーニャ王国への帰属意識を根こそぎにしてフランスのために戦うことを求められたが、フランスはその時、義務徴兵制を「血税」impôt du sang と呼んだ。
 それはフランスの法律用語であったが、日本でも明治政府が1872年に「徴兵告諭」を出したとき、義務徴兵制を意味する sang =血、impôt =税をそのまま翻訳して「血税」と表現した。それまで武器を持つことを禁止されていた農民は、文字どおり血を採られることと思って徴兵に反対する「血税一揆」が翌年春の岡山県で起こっている。その一揆では、唐人さんと呼ばれた西洋人が飲んでいる赤ぶどう酒は徴兵でとられた若者の血だ、という風評があった。民衆の徴兵制に対する抵抗の表れであった。<藤澤房俊『ガリバルディ』2016 中公新書 p.14-15>
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書籍案内

森山軍治郎
『ヴァンデ戦争-フランス革命を問い直す』
1997 筑摩書房

両角良彦
『1812年の雪
―モスクワからの敗走』
1985 講談社文庫
初刊1980 筑摩書房