印刷 | 通常画面に戻る |

ウンキャル=スケレッシ条約

1833年、第1次エジプト=トルコ戦争でエジプトに敗れたオスマン帝国が、ロシアの支援を得るため、そのダーダネスル=ボスフォラス両海峡航行権を認めた条約。イギリス、フランスが反発し、1841年の5国海峡協定で破棄され、海峡は再び封鎖される。

 ウンキャル=スケレッシとはトルコのイスタンブル対岸の地。英語表記では Unkiar Skelessi 、トルコ語では Hünkâr Ìskelesi フンキャル・イスケレスィ、ヒンキャール・イスケレシ、などとも表記。1833年オスマン帝国はマフムト2世、ロシアはニコライ1世が署名した条約で、ロシアが軍事援助を約束し、秘密条項としてロシア艦船のダーダネルス=ボスフォラス海峡(両海峡)の自由航行をオスマン帝国が認めた。

ダーダネルス=ボスフォラス海峡の通行問題

 両海峡は、1774年キュチュク=カイナルジ条約でオスマン帝国がロシアの商船の両海峡通過を認めたが、ロシアの地中海進出を警戒したイギリス、フランスなどの列強が干渉し、1809年には列強間の取り決めで軍艦の航行はすべての国を対象に禁止されることになっていた。

ロシア軍監の両海峡航行権認められる

 1831年に始まった第1次エジプト=トルコ戦争でエジプトの太守ムハンマド=アリーに敗れたオスマン帝国のマフムト2世は、ムハンマド=アリーを抑えるためにはロシアの支援が必要であると考え、ニコライ1世の要求に応えてロシアに有利な条件で1833年にこの条約を締結した。秘密条項でロシア軍艦のダーダネルス=ボスフォラス海峡の通行権と、他国の軍艦の通行禁止が認められ、見返りとしてロシアはオスマン帝国への援助を約束した。

第2次エジプト=トルコ戦争

 1839年に始まった第2次エジプト=トルコ戦争では、オスマン帝国は緒戦でエジプト軍に敗れ、マフムト2世も病没、急きょギュルハネ勅令を発してタンジマート(恩恵改革)を開始するという事態となった。
 しかし、イギリスはオスマン帝国の安定が必要と考え、ムハンマド=アリーのエジプトの強大化を阻止しようとしてオスマン帝国側に参戦、さらにロシアがオスマン帝国支援に回り、エジプトと結びつきの強かったフランスは直接支援には動かなかったので、単独でイギリス・ロシアと戦うこととなったムハンマド=アリーは最終的には敗れた。
 第2次エジプト=トルコ戦争の講和会議として、1840年ロンドン会議が開催され、ムハンマド=アリーはエジプト・スーダンの総督の地位の世襲を認められたものの、シリアは放棄して戦争が終わった。
再び航行禁止に このとき講和会議に参加したのは、第2次エジプト=トルコ戦争でオスマン帝国を支援したイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの4ヵ国で、フランスは除外された。しかし、ロシアの両海峡通行権が問題になると、4国の利害も対立した。そこで改めて翌1841年、フランスも加えて両海峡通行権問題についての5ヵ国会議が開催され、5国海峡協定がようやく成立、孤立したロシアがウンキャル=スケレッシ条約の破棄に合意し、両海峡は再び封鎖(艦船の通行禁止)されることとなった。
印 刷
印刷画面へ