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パドリ戦争

19世紀前半のスマトラ島で起こったイスラーム教徒を中心とした反オランダ武力闘争。

1821年~1837年ごろまでの長期にわたって続いた、インドネシアのスマトラ島における、反オランダ武力闘争をパドリ戦争という。パドゥリ戦争とも表記。パドリ(パドゥリ)の語源はよくわかっていないが、イスラーム教の聖地メッカに巡礼した者のなかで、19世紀初めにメッカを支配していたイスラーム教改革派のワッハーブ派(18世紀半ばにアラビア半島に起こったイスラーム教の純化運動)の影響を受け、厳格な信仰を主張した人々を指し、パドリ派または白派ともいった。それにたいしてスマトラ島の伝統的、土俗的な信仰を守ろうとした保守派をアダット派、または黒派といった。

イスラーム改革派の反乱

 1803年ごろメッカ巡礼から帰った3人のパドリ派が、スマトラ島中西部のミナンカバウでイスラーム改革運動を開始した。彼らはコーランと相反する慣習の廃止を主張し、コーランに逆らう行為は死をもって罰するという過激なものであったので、ミナンカバウの首長らアダット派は恐怖を感じ、オランダ植民地当局に介入とパドリ派の取り締まりを要請した。オランダ当局はマレー半島に進出を強めるイギリスに対抗する目的もあって介入を開始しパドリ派を排除しようとしたが、オランダ軍がイスラーム教のモスクを汚すなどの行為がパドリ派以外の穏健なイスラーム教徒の反発を受け、反乱は泥沼化した。
 1833~37年にはスマトラ島のインド洋側のパダン近郊でイマム=ボンジョールに率いられて反乱が広がったが、バタヴィアのオランダ軍は軍隊を派遣して反乱地区を包囲してを食糧供給路をおさえて持久戦に持ち込み、ついにパドリ派は降伏し、イマム=ボンジョールは捕らえられ、スラウェシに流刑となった。このパドリ戦争は、同時期のジャワ島で起こったジャワ戦争とともにインドネシアの反オランダ闘争として評価されている。<『インドネシアの事典』同朋舎 パドゥリ戦争の項などより>