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アメリカの女性参政権

1860年代から女性参政権実現の運動が始まったが、ようやく1911年から州ごとに実施され始め、第一次世界大戦後の1920年、合衆国憲法修正19条が発効してアメリカ全土で実現した。

 アメリカ合衆国憲法には、特に条文は無いが、選挙権は男性市民のみが有することを前提としていた。南北戦争後の1866年には憲法修正第14条(施行は1868年)が制定され、初めて市民権(公民権)が黒人を含む全アメリカ市民に与えられた。しかし、選挙権は明確に「男性市民」に限定され、女性にないことが明確になった。さらに1870年憲法修正第15条では黒人投票権は認められたものの、女性参政権はここでも認められなかった。

運動の始まり

 アメリカ合衆国での女性解放運動は、1830年代に始まり、1848年にはセネカ・フォールズ集会を開催して、女性参政権獲得運動の全国組織が結成された。その運動は苦難の連続であったが、南北戦争後の1869年に初めて女性参政権を与えるよう憲法を改正する提案がなされた。しかしそれは実を結ばなかった。
 女性達はまもなく主婦だけに座していては勝利は得られないと気づき、エリザベス=キャディ=スタントンなどの指導者は各州で女性参政権を獲得しようという困難な道を選んだ。運動には多くの女性が参加するようになり、黒人奴隷解放運動に活躍したハリエット=タブマンも参加した。しかし、19世紀末にアメリカでも帝国主義熱がたかまり、遠方の属領の「われらの褐色の兄弟たち」に自由の恵みを与えようとする興奮がみなぎっていた時期には、その運動は進展しなかった。

まず州ごとに実施始まる

 しかし、その好戦的な爆発が魅力を失ってくると、女性参政運動は平和的に行われるようになり、かえってそれが急速に成功を納める要因となった。1904年3月8日、ニューヨークで女性が参政権を要求してデモを行ない、この日が現在も続く「国際女性デー」の始まりとなった。アメリカ合衆国では州権を重視する州権主義が根強かったため、連邦議員選出のための選挙法の管轄は各州に置かれていた。そのため黒人参政権と同様に、女性選挙権も州によって承認時期が異なっている。まず、1910年のワシントン州に始まり、11年カリフォルニア、12年オレゴン、カンザス、アリゾナ‥‥と女性参政権を認める州がひろがった。

第一次世界大戦後に憲法修正

 女性参政権運動は、男女平等の選挙権が認められた諸州でアリス= ポールとルーシー=バーンズらが指導し、憲法修正に賛成する候補者を選び、1918年の議会で憲法改正を発議し、共和党の賛成で下院で可決された。ウィルソン大統領自身は女性参政権に断固反対してきたが、アメリカの第一次世界大戦参戦のためには女性の協力が必要であると考えるようになり、それを支持するようになった。ようやく上院が1919年6月に可決、各州の批准を経て成立し、1920年8月26日、アメリカ合衆国憲法憲法修正19条「投票権における合衆国および各州の性差別禁止」として発効した。これによって2600万人の女性の選挙権が認められた。<中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』アメリカ合衆国史③ 2019 岩波新書 p.60 などによる> → イギリスの女性参政権

アメリカ最初の女性議員 ジャネット=ランキン

ランキン

Jeannett Rankin 1880-1978
Wikimedia Commons

 モンタナ州のジャネット=ランキンはワシントン州での女性参政権運動に参加して経験を積み、1911年にモンタナ州で州議会に訴え、1914年11月にそれを実現させた。1916年にモンタナ州最初の女性参政権が認められた下院議員選挙が行われ、ランキンは共和党から立候補、広大な州をくまなく訪ねて民衆の声を聞くという選挙運動を展開して当選、1917年4月2日、アメリカ合衆国連邦議会初の女性議員として登院した。同時にアメリカの政府機関に選挙で選ばれて参加した初の女性となった。ジャネットは「ずっと微笑みを絶やさず、史上初の女性国会議員は居並ぶ男性たちの真ん中に坐りました」<M.B.オブライエン/南部ゆり他訳『非戦の人 ジャネット=ランキン』2004 水曜社 p.41>
二度の参戦反対 最初の議会でランキンは大きな決断を迫られる。それはアメリカの第一次世界大戦参戦を議会が承認するかどうかの投票であった。最初の指名の時に答えなかったランキンは、二度目の指名に答え、明確に参戦反対を表明した。この時は反対票は49票で彼女はその一人であったが、祖国を裏切るものとしてモンタナでの激しい反発が生まれ、2年後に上院議員選挙に立候補した彼女は落選した。その後も女性運動、母性保護、平和運動の指導に当たり、1940年の下院議員選挙で復活する。
 そして1941年の日本軍の真珠湾攻撃を機にフランクリン=ローズヴェルトがアメリカの第二次世界大戦参戦、宣戦布告の可否を議会に諮ると、ジャネットはただ一人反対票を投じた。こしてアメリカ最初の女性議員となったジャネット=ランキンは、二度の世界大戦参戦に反対したただ一人の連邦議会議員となった。
 ただ一人、戦争反対票を投じたランキンのもとに「愛国心」に駆られた群衆が押しかけ抗議した。ランキンは事務所に逃れ、モンタナの人々に手紙を書き、“この国を戦争に関わらせないために私が出来るすべてのことはします”という選挙運動で約束したとおり、自分の信念に従って投票したことを繰り返して述べている。
ベトナム反戦運動 次の選挙で当選する見込みはなかったので、立候補せず故郷に帰った。戦後にはインドでガンジーの非暴力主義に学ぶ旅を何回も行い、その途次に世界各地を回り、日本にも立ち寄った。活発に余生を送るジャネットが再び脚光を浴びたのは1960年代後半のベトナム戦争にたいする反対運動の先頭に立ったからだった。その思想と行動に続こうという女性たちが、ジャネット=ランキン平和旅団を立ち上げ、1968年1月15日、首都ワシントンで行進したとき、88歳のランキンはその先頭に立っていた。行進はすでに1万人を越えていたベトナムでの戦死者を悼んで黒服に身を包んで行われ、議会に到着するとランキンは即時停戦を求める請願書を議員に手渡した。この年にピークとなったベトナム反戦運動は、すぐには戦争を止めることはできなかったものの、戦争終結まで続けられた。ランキンは車椅子生活になったが平和への訴えを力強く続け、もう一度立候補を決意したほどだったが、ベトナム和平協定が成立し、米軍がベトナムから撤退した1973年、93歳になろうとする直前の5月18日に死を迎えた。<以上、M.B.オブライエン/南部ゆり他訳『非戦の人 ジャネット=ランキン』2004 水曜社 により構成>