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インドネシア共産党

1920年にインドネシアで結成されたアジア最初の共産党。独立後、最大勢力を有しスカルノのナサコム体制を支えたが、1965年の軍部クーデタによる大弾圧で消滅した。

 インドネシア共産党はコミンテルンから派遣されたオランダ人共産主義者スネーフリートの指導のもとに結成された社民同盟をもとに、1920年アジアで最初の共産党として創設された。世界の各国、各地域での共産党の結成の中で、1921年の中国共産党、1922年の日本共産党などよりも早く結成されている。
 オランダ人のスネーフリートは、1913年にジャワに来て、翌年スマランでシャミン同盟を結成し、イスラーム同盟(サレカット=イスラム)のスマウンらを通じてインドネシア人民族主義運動活動家を組織した。1918年、国外追放され、中国に渡ってマーリンと名乗り、人民戦線の戦術による中国共産党と中国国民党の国共合作(第1次)に尽力した。後にコミンテルンから除名され、オランダに戻って下院議員となったが、1942年、侵攻してきたナチス=ドイツによって銃殺された。

結成と最初の挫折

 スネーフリート追放後、社民同盟を鉄道労組で活動していたスマウンが1920年にインドネシア共産党(当初は東インド共産主義者同盟)に改組し、初代議長となった。この時点では共産党員はイスラーム同盟と二重党籍をもっていたが、イスラーム主義を掲げる勢力との対立が鮮明となり、1923年2月には共産党員はイスラーム同盟から分離した。
 オランダ植民地政府との対決姿勢を強めた共産党は、ストライキ闘争を進めて党勢を拡大し、イスラーム同盟にかわってインドネシアの民族運動の中心勢力となったので、当局による弾圧も強まり、初代議長スマウンや、第二代議長タン=マラカらが1923年までに逮捕・国外追放となり、ジャーナリストのダルソノが議長となったが、彼も1925年に逮捕され、国外追放となった。次々と指導者を逮捕された共産党は、活動が急進化し、十分な組織的統制も取れないまま、1926年11月に西ジャワで、翌年1月にはスマトラで武装蜂起を決行した。しかしいずれもオランダ植民地当局に弾圧され、16人が死刑、4500人が有罪となり、1308人がパプアに流刑となった。この徹底的弾圧によって、共産党はほぼ壊滅状態となった。
 その翌1927年にはスカルノが民族主義政党インドネシア国民党を結成すると、独立運動の主体はそちらに移った。スカルノはマルクス主義には理解を示したが、その運動は民族主義の色彩を強め、イスラーム信仰を柱としたので、共産主義とは一線を画すようになった。
 地下に潜ったインドネシア共産党は、1930年代はオランダの植民地支配、1940年代には日本の軍政に対する抵抗運動を、労働運動や農民運動を指導することで非公然に活動を続けた。

戦後の再建と蜂起の失敗

 1945年に日本が敗北し、再建されたインドネシア共産党も公然活動を復活させてた。インドネシア共和国はスカルノのもとで独立宣言を行ったものの植民地配を復活させようとするオランダとの戦いが間もなく始まった。共和国政府はハッタ副大統領ら親オランダ勢力が権力を握り、オランダとの交渉と妥協によって新国家を運営しようとしたが、共産党はオランダとの妥協を拒み、インドネシア人による独立を目指した。政府がさまざまな民間武装団体を国軍に統合して合理化を図ろうとしていたので、反発した国軍も共産党を支持した。こうして他の民族主義勢力とともに共産党の指導者ムソは1948年9月、東ジャワのマディウン市で武装蜂起に踏み切ったが、大統領スカルノは共和国の安定を優先するという立場から蜂起を批判して弾圧を命じ、ムソらは殺害されて蜂起は失敗した。このマディウン蜂起の失敗で共産党は非合法とされることはなかったが、国民的支持が減少し、再び低迷した。

Episode 「インドネシアの紅はこべ」タン=マラカ

 初期のインドネシア共産党の指導者にタン=マラカがいる。彼は西スマトラのイスラーム教徒の家に生まれ、オランダ留学中にロシア革命の影響を受けてマルクス主義者となった。帰国後、第二代のインドネシア共産党議長となり、イスラーム同盟との連帯を進めたが22年に国外追放となる。20年にわたる国外追放の間に、コミンテルンの工作員として東南アジア各地で活動、武装蜂起失敗後は国際共産主義運動(コミンテルン)とは一線を画して独自の運動を進めた。その活動は国内で出版された政治小説『インドネシアの紅はこべ』のモデルとされ、変幻自在の妖術を使って帝国主義とスターリニズムと戦うヒーローとなった。42年に帰国後も独立運動のシンボルとされ大きな影響力を持ったが、49年に殺害された。彼はイスラームを反帝国主義勢力として評価し、また東南アジアを一つの単位とした遠大な「社会主義世界連邦」を構想している。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.77,271>

アジア最大の共産党となる

 その後、インドネシア独立戦争は国際世論の支持もあってインドネシア共和国に有利に傾き、1950年には旧東インドをほぼ統一した範囲でインドネシア共和国が成立した。この1950年代初めに、インドネシア共産党は若い指導者アイディットが53年に書記長となり、残存する植民地主義と封建制度の遺制を一掃することを掲げて、階級闘争ではなく民族ブルジョワジーを含む幅広い層との民族統一戦線をとった。具体的にはオランダ企業の接収や西イリアン解放などを掲げたが、これはスカルノの政治的主張と一致したので、両者は急速に接近した。民族主義と大衆路線に転換した共産党は、急速に成長し、アジアで最も大きな勢力を有する共産党となった。
 インドネシア共産党は、選挙運動にも組織を挙げて取り組み、大衆路線をとって党勢を拡大し、1955年総選挙ではインドネシア国民党に次ぐ勢力となった。1955年、バンドンでAA会議を主催して第三世界の国際的リーダーとなったスカルノは、翌56年の世界各国歴訪の途次、中国を訪問し毛沢東と会談、好意的な歓迎を受け、中国共産党による社会主義建設を目の当たりにして強く影響を受け共産党に好意をもつようになった。国際的には確固たる名声を得たスカルノだったが、国内では西イリアン回復問題や、国軍の地方部隊の反乱などもあって、不安定な状況が続いていたため、スカルノは自己の政権を支える基盤として共産党をくわえることにした。
 1956年10月、スカルノは、選挙で議員を選び多数決で物事を決めていく西洋的議会制民主主義は国家に分裂をもたらすのみであり、調和を重んじるインドネシアの政治文化には適合しない、という見解を示し、政党政治ではなく家父長的な指導者によって指導される政治こそ相応しいという「指導される民主主義」を打ち出した。

全盛期のスカルノを支える

 ナサコム体制を国民党、イスラーム勢力とともに支えた。このころは党員360万を数え、社会主義国以外では世界最大の共産党となった。しかし、宗教団体であるイスラーム政党とは、選挙区の現場の村落では激しく対立しており、その溝は大きくなっていった。また、スカルノ体制とは一線を画していた軍は、共産党が政権に加わることを強く警戒するようになった。さらに、当時ベトナム戦争が深刻になる中、インドシナで共産勢力の封じ込めに必死になっていたアメリカも、スカルノが共産党に近づき「容共政権」となることに強い危惧を抱くようになった。

九月三〇日事件で解体される

 スカルノ体制を支えるもう一つの勢力である軍部との対立が次第に深刻となり、1965年九月三〇日事件を機に、共産党に対する大弾圧が行われた。この事件は、スカルノ体制を支えていたインドネシア共産党系の軍人が、アメリカがスカルノを失脚させようとしているという謀略を察知して反米行動を起し、反スカルノ派の軍幹部6人を殺害したことから始まり、残った軍幹部のスハルト将軍がただちに軍を統率し、反乱首謀者らを捕らえ、さらに背後に共産党がいたとして、1965年10月~11月に全国の共産党勢力を一斉に弾圧、約50万人以上に及ぶという多数の共産党員が殺害された。これによってインドネシア共産党は事実上、解体され、翌1966年3月11日には大統領権力を事実にぎったスハルトにより、翌日、非合法とされた。共産党非合法の根拠は、インドネシア共和国憲法に掲げられた建国五原則(パンチャシラ)の第一項、唯一神への信仰を国是とすることであるとされた。
 九月三〇日事件でナサコム体制を支えていたインドネシア共産党が崩壊したため、スカルノ大統領は実質的に権力を失い、スハルトにより徐々にその権力を奪われ、1968年に軍を背景とするスハルト将軍が第2代大統領に就任する。こうしてインドネシアでは共産党は事実上、存在しないものとなった。
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