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フィリピン独立準備政府

アメリカ統治下のフィリピンにおいて、1935年に10年後の独立が認められ、その準備のために発足した政府。日本軍の侵攻によりアメリカに亡命した。

 1934年にアメリカ議会がフィリピンの10年後の独立を認めたフィリピン独立法(タイディングス=マクダフィ法)によって、翌1935年に発足させたフィリピンの自治政府。10年後の1946年の独立の準備にあたった仮政府であり、フィリピン=コモンウェルス、フィリピン第二共和国などともいわれる。 → 第1次フィリピン共和国

アメリカのフィリピン統治

 アメリカ合衆国は1898年の米西戦争の勝利によってスペインから2000万ドルでフィリピンの統治権を買い取った。すでにスペインからの独立運動を展開していたアギナルドらは、独立の好機ととらえたがアメリカ帝国主義はフィリピンの独立を認めず、1899年にはフィリピン=アメリカ戦争となり、フィリピン独立軍はゲリラ戦を展開したが1902年までに鎮圧されてしまった。独立運動を押さえ込んだアメリカは1902年に軍政を開始し、植民地支配を続けた。なおも反米民族主義の活動が続いたので、アメリカ政府は一定の妥協を図り、1907年には一院制の議会を開設し、内政におけるフィリピン人への権限移譲を表明した。その後もアメリカは英語の強制など、アメリカ化を進めフィリピン統治を続けたが、フィリピン知識人の中には欧米流の民主主義を学び、自治を強く要求するようになった。

アメリカのフィリピン独立約束

 アメリカのフィリピン統治に大きな転換をもたらしたのは世界恐慌であった。フィリピン植民地からの安価な農作物の流入は、アメリカ農業にとって歓迎されなくなり、フィリピンを独立国として、そこからの輸入に関税をかけるべきであるという声が強まった。そのような声が強まったことにより、フランクリン=ローズヴェルト大統領の時、1934年にフィリピン独立法(タイディングス=マクダフィ法)がアメリカ議会で成立したのだった。

独立準備政府

 フィリピン独立準備政府のもと議会も発足し、国民投票で憲法を制定して、翌35年には普通選挙によって初代大統領としてケソンが選出された。しかしこの国家は、主権はアメリカ合衆国にあり、フィリピン人もアメリカ大統領への忠誠を義務づけられていたので、完全な独立国とは言えずなかった。

日本の軍政と準備政府のアメリカ亡命

 1941年末、日本軍は真珠湾攻撃に続きマレー半島に侵攻し、並行してフィリピン占領を行った。フィリピン防衛に失敗したアメリカ軍司令官マッカーサーは撤退し、独立準備政府のケソン大統領らはアメリカに亡命し、亡命政権を作った。日本軍はフィリピンを軍政下において統治したが、その強圧的な統治は反発を強め、フクバラハップなどの抗日組織が活動を開始した。日本は大東亜共栄圏への参加と対米戦争への参戦を条件にフィリピンの独立を認め、1943年に10月、ラウレルを大統領とするフィリピン共和制が樹立されたが、これはアメリカの亡命政権からすれば、日本軍による傀儡政権に過ぎなかった。

フィリピン共和国の完全独立

 太平洋戦争の形勢が逆転し、1944年のアメリカ軍がフィリピンを奪還、ラウレルは逮捕されて日本に協力した政府は倒れ、代わってアメリカから亡命政府が帰還、そのもとでアメリカとの約束の通り、1946年に正式にフィリピン共和国として独立した。
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