印刷 | 通常画面に戻る |

大韓民国/韓国

 日本による朝鮮半島植民地統治が1945年8月に終わった後、北部をソ連、南部をアメリカによって分割支配された後、1948年に朝鮮南部に成立した国家。初代大統領は親米的な李承晩が就任。1950年~53年、北朝鮮と朝鮮戦争を戦って大きな被害を被った。1960年にクーデタで権力をにぎった朴正熙による軍事独裁政権の下で、工業化を進め、経済成長を実現。1987年に民主化を求める運動に成功、大統領を直線国民が選出するようになった。80~90年代に経済成長が著しかったが、分断国家を統一するという最大の課題は解決されていない。


 1910年からはじまり、35年間続いた日本の朝鮮植民地支配は、第二次世界大戦で日本が敗北、日本は1945年8月10日に連合国に無条件降伏を通達したことによって終焉を迎えた。8月15日には日本国内で昭和天皇によって降伏が宣言されたので、この日は大韓民国で独立を回復した光復節として祝われている。しかし、日本軍撤退後、北からはソ連軍、南からはアメリカ軍が進駐して、北緯38°付近で分断されるという、大戦後の東西冷戦がそのまま持ち込まれ、朝鮮の分断が現実のものとなってしまった。
 朝鮮半島のほぼ北緯38度線以南を実質統治する国家として、1948年8月15日に成立した国家が大韓民国、通称が韓国である。首都はソウル。初代大統領には李承晩が選出された。それに対して、北には1948年9月9日朝鮮民主主義人民共和国が樹立され、金日成が首相に就任した。
 日本では朝鮮半島南部の国家を「韓国」、北部の国家を「北朝鮮」と略称で呼んでいるが、それぞれの国はいずれも理念上は担当全体を統治しているので、いずれも自国の一部と認識している。
韓国の国旗 太極旗といわれる大韓民国の国旗は、中央の円が太極で赤が陽、青が陰を表す。四隅の記号は易学で東西南北の宇宙の構成要素に対応している。

大韓民国/韓国(1) 国家分断から朝鮮戦争へ

大韓民国の建国

 第二次世界大戦終結に伴い日本軍が撤退した後、この朝鮮半島南部にはただちにアメリカ軍が進駐し、北にはソ連軍が駐留して北緯38度線でにらみ合う形となった。アメリカは国連の支持のもと、南で総選挙を強行し、独自の議会を成立させ、初代大統領にアメリカ亡命から帰国した大韓民国臨時政府李承晩を選出して国家の形態を整え、1948年8月15日に大韓民国を成立させた。
済州島四・三事件 朝鮮全土での統一された選挙を望んでいた朝鮮民衆は、分裂選挙に反対し、その一部は武装して蜂起したが、1948年4月済州島四・三事件にみられるように米軍の加わった弾圧によって抑えられてしまった。北は対抗してソ連の支援の下で同年9月9日朝鮮民主主義人民共和国を建国、ここに朝鮮は南北に分断されることになった。

朝鮮戦争

 1950年6月、統一国家実現を掲げた北朝鮮の金日成が、軍を境界線南部に侵攻させたことから、ついに朝鮮戦争が勃発、一時は北朝鮮軍が釜山にせまり、大韓民国は危機に陥った。アメリカは共産勢力が半島全域を支配することを避けるため、急きょマッカーサー率いる国連軍(実質はアメリカ軍)を派遣、国連軍は仁川に上陸して形勢を逆転させた。1953年7月27日朝鮮休戦協定が成立したが、軍事境界線をはさんで南北の対立はその後も続いている。
(引用)世界史上最も破壊的な戦争といわれる朝鮮戦争は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と韓国を破壊してしまった。ソウルは4回もその支配者をかえ、そのたびに苦しい戦闘を経験した。北朝鮮の侵攻を受けることがなかったのは同国の東南わずかな部分だけであった。1953年に戦争が終わった時、韓国の人口2000万人のうち約4分の1が家とほとんどの財産を失って難民となり、台湾にやってきた中国外省人とは違って、定職をみつけうる希望はほとんどなかった。南の100万以上の民間人と32万の軍人は命を失った。この著しく多くの死者は若者であり、もし死ぬことがなかったならば、彼らは労働力となり、家族の収入に貢献したにちがいない。<エズラ=ヴォーゲル/渡辺利夫訳『アジア四小龍』1993 中公新書 p.62>
 この文に続けて、筆者エズラ=ヴォーゲルは韓国が急速に工業化を遂げ、アジア四小龍の一つといわれるまでの説明に入るのだが、現在の韓国の繁栄を目の当たりにしている私たちにとって、韓国(北朝鮮も同じだが)が35年に及んだ日本の植民地支配に続いて、朝鮮戦争という同じ民族同士が血を流す激しい戦争を経てきていることをともすれば忘れがち(あるいは故意に無視しようとさえする)であることを戒めなければならないと思う。

独裁政治と民主化の戦い

 朝鮮戦争後の大韓民国は李承晩の独裁的な政治に対する民主化の動きが強まり、1960年4月には学生を中心とした四月革命によって李承晩政権が倒れた。しかし、翌61年には軍人の朴正煕による軍部クーデタがおき、軍政下に置かれる。北朝鮮との対峙という厳しい状況の中で、朴政権は軍事独裁政治のもとで経済開発を優先するという開発独裁を推し進め、民主化を弾圧しながら、一定の経済成長を実現させた。

用語リストへ 16章1節16章3節

 ◀Prev Next▶ 


韓国(2) 開発独裁と経済成長

1960年代には朴正煕の独裁政治のもとで、経済開発が進められ、1970年代には急速な工業化を遂げた。その成長は韓国をNIEsの一角に押し上げたが、それによって成長した中間層は次第に独裁政治に対する不満を強め、79年の朴大統領射殺事件を機に民主化闘争が盛り上がったが、翌年成立した全斗煥政権によって弾圧された。

朴正煕の軍事独裁体制

 1961年5月、韓国陸軍の軍事クーデタによって政府は倒され、軍人朴正煕政権を樹立した。軍事革命委員会は国家再建最高会議と改められ、朴正熙は副議長から議長となり、大統領代理に就任、首相を兼任し、憲法を改正したうえで1962年12月に戒厳を解除した。しかし、1963年3月、突如、与党民主共和党を結成して、8月に大統領選挙を行って当選、1963年12月17日、大統領に就任した。形は大統領制であるが軍と諜報機関を基盤とした軍事独裁政権には変わりはなかった。
軍事独裁政権の背景 朴正熙による強圧的な政治と経済運営の口実は、朝鮮戦争の休戦が北朝鮮によっていつ破られるかわからない、という恐怖心であった。実際、北朝鮮は韓国に比べて資源が豊かで、日本統治下のダムなどの産業基盤を継承し、ソ連の援助もあり、軍事国家としての実力を備え、北緯38度線の南に対して宣伝を繰り返し、非武装地帯ではトンネルを張り巡らせていた。国境からわずか48kmしか離れてないソウルは常に緊張を強いられていた。

日韓基本条約締結とベトナム戦争

 朴正熙政権にとって、軍事政権を維持するためには韓国経済を復興させることが条件であった。しかし朝鮮戦争の傷痕は深く、経済復興のためには外国の経済支援が不可欠であった。そのとき最も有力な支援先となったのが日本であり、朴政権は日本の経済支援を引き出すために日韓の国交を回復させる交渉を開始した。その交渉を屈辱的と感じた学生・民衆の中に反対闘争が起こると日韓会談は中断され、1964年6月、朴政権は戒厳令を宣告して会談の責任者金鐘泌を退陣させて事態を収拾し、韓国中央情報局(KCIA)による軍政反対運動を厳しく弾圧した。
 1965年、アメリカのベトナム介入が本格化してベトナム戦争が激しくなると、朴政権はアメリカ軍を支援して韓国軍をベトナムに派遣することを決定、その見返りとしてのアメリカの経済援助を、日本が肩代わりすることが期待され、日韓会談を再開、その妥結が急がれた。その結果、1965年6月日韓基本条約が締結され、全国に非常警戒令が出される中、8月に条約批准を強行した。日韓基本条約は日本国内でも学生の中で反対運動が起こっていたが、日韓両国政府が反対運動を厳しく弾圧して強引に成立させたもので、双方の国民的合意のもとで締結されたものではなかった。それでも韓国は国家として多額の資金援助を得ることができ、経済復興への財源とすることができた。
ベトナム戦争と韓国軍  1960年代に韓国が急速に工業化し、経済を成長させた背景にはベトナム戦争へのアメリカへの協力があった。1966~72年の韓国は実に40億ドルを超える外資を資金源とすることができた。
(引用)これだけの外資の導入が可能であったのは、韓国が、社会主義と直接対置する前線国家として、この時期のインドシナ戦争(引用者注、ベトナム戦争を指す)を戦うアメリカの最も有力な同盟国であったことによるものである。韓国の存在は、太平洋地域の資本主義大国・日本が憲法上の制約によってインドシナ戦争への直接的な軍事協力基地提供などに限られていたことからもひときわ目立っていた。韓国は、インドシナ戦争が本格化した65年から73年にいたる期間、アメリカの要請をうけて、約5万人、延べ31万人余りに及ぶ実戦部隊をインドシナに派兵した。その規模は、オーストラリアやニュージーランドを含むSEATO(東南アジア条約機構)諸国全体の派兵数をもはるかに凌ぐ数(約4倍)であった。<文京洙『新・韓国現代史』2015 岩波新書 p.99>
 韓国軍部隊は青龍・白虎・猛虎などと名つけられた部隊が、主としてベトナム中部沿岸地域に駐屯し、大規模・小規模の作戦を遂行、4万1400人のベトナム兵を射殺したとされ、その残忍さから、アメリカ兵以上に恐れられていたという。韓国軍の残虐行為は後になって問題とされ、ある調査では虐殺は80件余りで9000人余りに及ぶ犠牲をだしたという。アメリカは韓国軍の派兵の見返りとして経済支援を行い、技術提供などを行って韓国の高度成長が可能になったが、そのツケも大きく、ベトナムに派兵された韓国兵の枯葉剤による後遺症は今も深刻であり、一方のベトナムでの反韓国感情となっているばかりか、日本の過去を問う際の信憑性を著しく減じている。<文京洙『新・韓国現代史』 p.99-101>

韓国経済の急成長

 戦後1950年代の日本は朝鮮戦争によって経済復興、高度成長の足がかりをつかんだが、こんどは1960年代後半からの韓国は日韓基本条約による日本からの経済支援と、ベトナム戦争の特需を背景に工業化・経済の急成長をさせた、と言うことになる。朴政権は軍事独裁政権の下で民主的な合意を経ることなく政策を実行する開発独裁の典型例として、60年代後半から工業化を中心とする経済政策を展開したのだった。
 ベトナム戦争の泥沼化はアメリカの対韓経済援助の削減や、1969年7月ニクソン=ドクトリンによるアジアでの米軍の縮小、さらにカーター大統領が韓国からの米軍の撤収の表明などの変化をもたらし、それは韓国に防衛力の強化のための産業基盤確立の刺激となった。1970年代はアメリカの韓国からの後退という現実の中で、朴正熙が軍事独裁を一段と強化した「維新体制」がとられることになった。

朴正煕の維新体制

 朴正煕は1967年に大統領に再選されると、自ら制定した憲法の三選禁止規定の改正を強行した。1970年に入り、ベトナム戦争の行き詰まりなどの中で韓国でも民主化運動が活発となり、1971年の大統領選挙では民主運動家の金大中が善戦したが、朴正煕は95万票差で三選された。朴正煕は民主化運動を抑えるため「北の脅威」のもとで「平和統一」を達成するには国民総和が必要であるとして、1972年10月に戒厳令を布告し、国会を解散、政党・政治活動の停止、大学の封鎖を強行した上で国民投票を実施して憲法を改正、大統領を国民会議による間接選挙に改めるという「維新体制」を作り上げた(「10月維新」)。また1973年には金大中を東京で拉致してその政治活動を妨害した(金大中事件)。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書>

漢江の奇跡

 1970年代、韓国は朴正煕の開発独裁のもとで工業化、開発を推し進めた。続く全斗煥軍事政権も含め、70~80年代の経済急成長は「漢江の奇跡」といわれた(漢江=ハンガンとはソウルの中心部を流れる川)。1973年、朴正煕は「重化学工業化開発政策宣言」を発表し、鉄鋼・化学・非鉄金属・機械・造船・電子工業など重点開発部門を設けて、財政と金融面で優遇した。その結果、浦項(ポハン)総合製鉄所、大韓造船所、蔚山(ウルサン)石油化学コンビナートなどが拡張され、起亜産業、現代自動車による国民車生産などに象徴される高度経済成長を遂げた。1977年には悲願の輸出100億ドルを達成し、建国以来初めて国際収支の黒字に転じた。1978年にはOECDは韓国を新興工業経済地域(NIEs)の一つと位置づけた(当初は新興工業諸国=NICsと言われたが、80年代にNIEsと言われるようになる)。その背景は、石油ショックによる工業先進国が停滞する間に、アラブなど第三世界への輸出が急増したことが挙げられる。
(引用)韓国人の決心と活力は、これを正確に測定することは難しいが、にもかかわらずそれらはほんものであった。強圧的な日本の植民地支配とすさまじい朝鮮戦争の結果、国家の決意は確かに強固なものとなり、さらに韓国人がその経済的成功から自信を得たことにより、これは一層固いものになっていった。日本が最高の成長率を見せた時でも、日本人の週平均労働時間は50時間を超えなかった。韓国の高度成長期間中、労働時間は週60時間に達し、1980年代後半でも平均55時間程度を維持し、他の先進工業国あるいは中進国より10時間以上も多かった。1965年に韓国は、その工業化努力を1955年の日本よりはるかに低い技術とはるかに低い賃金によって開始し、より激しい国民的努力によって産業競争力を身につけていった。中東の建設プロジェクトにおいては、焼けるように暑い気候の中で喜んで長時間働くという熱意において、韓国の労働者にかなうものはいなかった。ベトナム戦争をともに戦ったアメリカの同盟軍のなかで、韓国軍は最も決然たる戦闘員として知られている。……<エズラ=ヴォーゲル/渡辺利夫訳『アジア四小龍』1993 中公新書 p.69>
 1970年代以降、韓国人は経済成長への取り組みと同様の熱意で教育に取り組んだ。日本からの独立時、全朝鮮人の半分近くは読み書きができなかったが、この時期にどの国よりも教育、とくに高等教育の面で早い進歩を見せた。どの国も若者よりも主としてアメリカと日本、ヨーロッパなどどこへでも知識と情報を熱心に追い求めた。韓国人留学生は大学入学試験の準備では誰にも負けなかった。彼らは化学や工学だけではなく経済学その他の社会科学や人文諸科学を学び、歴史発展に関する幅広い感覚を身につけて祖国に帰った。<ヴォーゲル『同上書』 p.70>
韓国の財閥 1970年代に急成長した韓国経済の中から、幾つかの財閥が生まれた。韓国の財閥(チェボル)は日本の財閥と異なり、戦前からのものではなく、いずれも戦後になって生まれ、独自の銀行はもたず、政府の国家計画立案の中枢と結びついて成長した。チョボルの成長で重要な役割を担ったのが建設部門であった。道路、鉄道、河川の堤防、港湾、公共施設の再建など最も急を要する優先事項であり、アメリカの建設機材の供与を受け、すばやく熟達した。韓国企業はベトナム戦争でアメリカ軍が必要な事業を最安値で請け負い、さらに1973年の石油ショックの後、新たな富を得た産油国で、韓国企業は大きなシェアを獲得した。
(引用)1979年にはサウジアラビアだけで68の韓国企業と9万3千人の韓国人労働者が働いていた。韓国人労働者の3分の2は元兵士で、非常によく訓練されており、近代的な機械に習熟し、また兵舎での生活に慣れていた。彼らは疲弊した故郷で得ることができるよりもはるかに多くを稼ぐために、長時間労働も厭わなかった。現代、大林、東亜などの韓国のチェボルは、中東の建設工事での成功によって爆発的な成長を遂げた。そして小企業が大きく成長してチェボルになることもあった。こうして10年近くの間、これら企業は合わせて年間何十億ドルもの外貨を生み出し、それにより自国での産業基盤を拡張させることに貢献した。<ヴォーゲル『同上書』 p.88-89>
 このあたりに、韓国経済が日本経済に追いつき、追い抜いていく要因があったのかも知れない。

朴政権の終わりと光州事件

 朴正熙による軍部独裁政治は1970年代後半になると、経済発展によって成長した中間市民層が、政治的自由を要求するようになり、またアメリカにも人権外交を標榜するカーター大統領が韓国批判を強め、朴正煕政権は苦境に立たされるようになった。そのような中で政権内部に矛盾が強まり、1979年10月26日に中央情報部部長金載圭によって大統領が射殺されるという突発的な朴正煕大統領射殺事件が起き、朴政権は一挙に崩れ、韓国社会には一気に民主化の動きが高まった(ソウルの春)。
 しかし、翌1980年5月、軍を掌握した全斗煥(チョンドファン)は、金大中ら民主化運動家を逮捕して、政党活動の停止・言論、出版、法曹などの事前検閲・大学の休校などの措置をとり実権を握った。これが五・一七クーデターである。南部の光州では1980年5月18日~27日の間、軍隊による大学生・市民に対する激しい弾圧によって多くの犠牲が出るという光州事件が起きた。

全斗煥の政治

 1980年5月の光州事件を鎮圧した全斗煥による軍政(新軍部政権)が開始され、新憲法の下で間接選挙による大統領選挙の結果、全斗煥が大統領に選出された。全斗煥政権は民主化運動を厳しく取り締まり、金大中は亡命、金泳三は自宅軟禁となり、学生運動に対しては学習塾の廃止、入試の廃止などとともに卒業定員制を設けて学生を大学に封じ込めておくなどの措置がとられた。その他、労働運動、言論制限など、韓国はソウルの春が一挙に終わって冬の時代に突入した。またこの時期はアメリカ大統領にレーガンが登場し、米ソの新冷戦が始まり、それが朝鮮半島情勢にも影響して、1983年には北朝鮮によるラングーン事件(ビルマ訪問中の韓国要人19人が爆弾テロに遭った)、87年には大韓航空機事件(北朝鮮の工作員金賢姫らによって大韓航空機がインド洋で爆破された)などが起こり、いずれも北朝鮮の工作員の関与とされ、緊張が高まった。

参考 『韓国からの通信』

 朴正熙・全斗煥両政権下の韓国での人権抑圧の状況を、秘かに日本の雑誌を通して世界に訴え続けた青年がいた。彼は言論統制の厳しかった韓国では発表できなかったレポートを、K.T生という匿名で1972年4月から88年まで日本の月刊誌『世界』に投稿し続けた。その中で、1973年の金大中事件は韓国中央情報局(KCIA)の犯行であることを明言し注目を浴び、80年の光州事件でも、民主化を求める市民や学生を軍が武力制圧し、多数の死傷者が出ている事実を伝え、世界に衝撃を与えた。
 この人物は韓国が民主化された後に、池明観チミョングァンという名であることが明らかになり、彼は東京女子大で教えながら韓国民主化運動を支援し、帰国後は宗教哲学者となり、日韓の文化交流に努めたことが判った。1998年から金大中政権では対日政策のブレーン役を勤め、それまで反対の多かった日本映画や歌謡曲を韓国で公開する文化開放に尽くした。2001年の歴史教科書問題での日韓対立でも修復に努力した。後に朝日新聞の取材に対し、『韓国からの通信』は「闘いの書。事実を誇張し、民主化勢力を美化しすぎた」と語し、批判があれば受け入れる姿勢を示したという。現代の日韓関係の歴史に誠実に向かいあった池明観氏は、2022年1月1日に97歳で亡くなった。<朝日新聞 2022/1/3 記事による>

韓国(3) 民主化の実現と経済危機

1987年の民主化運動により憲法が改正され国民直接選挙で大統領選挙が始まり、年末に盧泰愚(旧軍人)が当選。その後、90年代には金泳三・金大中の非軍人大統領が続く。この間、オリンピック開催、国連加盟が実現したが、97年にはアジア経済危機が起こり、経済成長がとまる。

改憲と民主化

 1987年、ソウルや光州などの学生・市民が大統領直接選挙を求める民衆デモに対して全斗煥政権が改憲を拒否して運動の弾圧をはかると、全土にデモがさらに激しくなり、ついに1987年6月29日、全政権も憲法改正に応じ、大統領直接選挙、言論の自由の保障、反体制運動家の釈放などを約束した(六月民主抗争)。これによって憲法が改正され(第六共和国憲法)、年末に国民の直接選挙による大統領選挙が行われた。改革派は金大中と金泳三の二人が立ち一本化できなかったため、軍人出身で全政権の継承を唱えた盧泰愚(ノテグ)が当選した。

オリンピック開催と国連加盟

 経済成長は続き、その象徴として1988年にはソウル・オリンピックを開催した。また1989年の冷戦終結という大きなうねりの中で、1991年9月には南北両国の同時での国際連合への加盟が実現した。
 次いで1992年の大統領選挙で金泳三(キムヨンサム)、1997年12月18日には金大中(キムデジュン)という長い間民主化運動を進めていた非軍人の人物があいついで当選した。韓国では1961年以来の軍事政権が終わり、約30年ぶりに非軍事政権=文民政権が成立したこととなる。この間、95年には前大統領の盧泰愚や全斗煥が在任中の不正蓄財・人権抑圧などで告発され、有罪とされ、軍人政治家の不正が次々と暴かれていった。

経済危機と金大中政権の登場

 金泳三政権は、90年代中期の世界的なグローバリゼーションの波に乗り、「世界化プロジェクト」と称して市場開放、合理化(労働組合運動の排除)を進めたが、1997年にタイのバンコクに始まったアジア経済危機が波及し、韓国経済は深刻な危機に襲われた。
 1998年金大中政権はIMFの財政再建、規制緩和、公共事業削減など構造改革(経済調整政策とも言う)に応ずることによってその融資を受けることにして、その危機を切り抜けた。一方、北朝鮮との関係では太陽政策を掲げて対話を開始し、2000年6月13日には北朝鮮を訪問して金正日との間で初の南北首脳会談を行った。
 2002年にはサッカーのワールドカップの日韓共同開催を成功させて、韓国は日本文化の解禁に踏み切り、日本でもTVドラマなどで「韓流ブーム」が起こって関係は良好になった。
 2003年に代わった盧武鉉(ノムヒョン)大統領も太陽政策を継承したが、北朝鮮側がNPTを脱退して核実験を強行したため関係は急速に悪化し、東アジア情勢は緊迫の度合いを強めることとなった。

退任後の不祥事告発がつづく韓国大統領


法廷に立つ二人の元大統領
右が全斗煥、左が盧泰愚
 2009年5月23日、盧武鉉前大統領が自殺した。親族の不正事件(妻が100万ドルの不正献金を受けたという疑惑に責任を感じてのことであるらしい。韓国の大統領の在職中の不正事件が連続しており、いずれも退任後に発覚して告発されている。今回も同じような事態となってしまった。その背景には、韓国の大統領には権力が集中していることと、韓国政界の金銭体質などがあげられている。最近の韓国大統領の在任中、あるいは退任後に明るみに出た不正事件は次の通り。
  • 全斗煥 財閥から数千億(ウォン)の秘密資金を受領。クーデター関与で内乱罪に問われ、有罪となり死刑判決。後に赦免される。
  • 盧泰愚 全斗煥と同様の罪状で有罪となり、懲役22年6ヶ月の有罪判決。後に赦免される。
  • 金泳三 次男が企業から資金を受領。斡旋収賄で有罪。
  • 金大中 次男と三男が企業から資金を受領。斡旋収賄で有罪。
  • 盧武鉉 妻が企業から資金を受領。大統領自身も収賄容疑で事情聴取され、自殺。
  • 李明博 サムスンなどの大企業から収賄があったとして、退任後の2018年10月、有罪判決を受け、2020年10月、実刑が確定した。
  • 朴槿恵 友人の崔順実を通じて不正事件に関与したとして、2017年3月10日、大統領弾劾が成立して辞職。収賄などの罪に問われ懲役20年の判決を受け、係争中(2020/10/30現在)

日韓関係の悪化

 竹島(韓国側では独島)の領有をめぐって、対話が途絶えることとなった日韓関係は、小泉首相の靖国参拝などに中国とともに韓国も強く反発し、植民地時代の対日協力者を糾弾する動きがおるなど、悪化の方向をたどった。2005年には盧武鉉大統領が光復60周年記念演説で過去の清算を呼びかけたが、溝はかえって深くなっている観がある。
 従軍慰安婦問題は、1993年に日本側が宮沢内閣の官房長官河野洋平の談話として、日本軍及び官憲の関与があったことを認め、「お詫びと反省」を表明したが、2006年に安倍内閣(第1次)が登場したころから日本の右派陣営の中から河野談話見直しの声が強まり、それに対応して韓国側も態度を硬化させることとなった。さらに、2008年に韓国大統領となった李明博(イミョンバク)大統領は太陽政策の廃棄、北朝鮮との対決姿勢を強めるなど、強硬姿勢に転じたが、その一環として、2012年8月10日、実効支配している独島(日本名竹島)に韓国大統領として初めて上陸した。これに対しては日本側も強く反発し、いわゆる嫌韓論が吹き出した。これは李大統領の翌年の任期満了を前にした人気取りのパフォーマンスという色彩が強かったが、その後も韓国は実効支配を続けている。

朴槿恵政権から文在寅政権へ

 2012年の大統領選挙でも保守派の朴槿恵(パククネ)が当選した。朴槿恵は韓国初の女性大統領であり、朴正煕の娘であったので、かつてのような経済成長を期待する財界の支持があったが、2014年4月16日に起こったセウォル号沈没事故での対応の悪さや、財閥との癒着などが明るみに出たことから2017年3月、韓国で初めて弾劾制度により大統領を失職した。同年5月に行われた大統領選挙では革新政党「共に民主党」の文在寅(ムンジェイン)が当選した。文在寅は盧武鉉の側近の弁護士であった人物で、財閥との決別、北朝鮮との関係回復を掲げた。

南北首脳会談の実現

 韓国の文在寅大統領は、2018年2月の韓国で開催された平昌冬季オリンピックを舞台に急激な北との会話路線に踏み切った。急速な両者の接近は同年4月27日の板門店「平和の家」での文在寅韓国大統領と金正恩国務委員会委員長両首脳の会談を実現させ、世界を驚かせた。南北統一以前に解決すべき課題として、現在休戦中である朝鮮戦争の終結をめざすことで一致し、板門店宣言を発表した。
 アメリカ合衆国のトランプ大統領は当初、ミサイル発射実験を繰り返す北朝鮮の金正恩を「ロケットマン」と呼んで非難し、経済封鎖を強化していたが、文在寅の大胆な転換に金正恩が応じるとその姿勢を変え、対話路線に転換して密かに交渉(中国の習近平政権が仲介した)を開始した。その結果、2018年6月12日シンガポールでトランプ=金正恩会談が実現、史上最初のアメリカと北朝鮮の首脳が直接会談を行った。
 その後、経済制裁とミサイル・核兵器開発を巡って両者の駆け引きが続いている。2019年2月28日には第2回となる米朝首脳会談がベトナムのハノイで開催されたが、アメリカは北朝鮮に核の即時全面撤廃を要求、北朝鮮は段階的廃止と平和利用の余地を残すことを主張したようだが溝は埋まらなかった。
 さらに2019年6月30日、大阪で開催されたG20の帰りに、突然トランプが板門店に行き、軍事境界線を越え、金正恩が出迎えるという形で第3回の米朝首脳会談が行われた。両者は関係良好を強く演出したが、肝心の朝鮮戦争終結宣言がどうなっているのか不明であり、日本が蚊帳の外に置かれ最大の関心事である拉致家族の完全帰国についての見通しはまったく立っていない。その後のトランプ=金正恩会談は双方の思惑がくちい違ったか、いずれも失敗した。

参考 朝鮮半島の現状を考える

 現在の日韓両国は、竹島問題とともに靖国神社と従軍慰安婦とを焦点とした歴史認識問題というやっかいな問題を抱えて冷え切っている。さらに2018年10月30日、韓国大法廷(日本の最高裁にあたる)が日本支配時代に徴用工であった人々に日本企業に対する賠償金請求を認めたことから、「徴用工問題」がもちあがった。日本政府は1965年の日韓基本条約によって韓国側の請求権は解消していると主張、徴用工に対する賠償は国際法からいっても必要ないと反発している。韓国政府の正式な立場は請求権は既に無いとしているが、裁判所は個別の請求権については未解決との判決を下し、韓国国民の多くも日韓基本条約そのものが時の朴正凞大統領が国民的合意なしに、あるいは周知せずに、結んだものであるととらえているので、日本の強硬姿勢には反発する空気が強い。
 最近は北朝鮮の核開発、ミサイル実験などの「北の脅威」に対するJアラートの整備、ミサイル防衛のためのイージスアショア基地設置、新鋭ステルス戦闘機購入という「防衛努力」を続けた。その要として沖縄普天間基地の代替として辺野古へのアメリカ軍基地移設を進めている。2020年にはイージスアショアの配備が技術的な問題で困難であることが判明して中止となると、一部にはそれに代わって自衛隊が「敵地先制攻撃」能力を持つ必要があるという議論が起こった。
 一方の日韓関係はかつてない厳しい状況にある。テレビでもあれだけ触れていた北朝鮮民衆がいかに貧しい生活をしているか、といった情報はピタリとなくなり、いまや文大統領がいかに韓国で人気がない存在かといった「分析」や、感情的な「反日」が煽られているといった情報が多くなっている。日本人に見られる韓国に対する蔑んだものの言い方は、2000年代から顕著になった韓国経済の急成長に対する「やっかみ」からくるのではないか、とも思われるが、両国の国民感情を悪い方に煽ってなにか良いことがあるのだろうか。
 日本が北朝鮮・韓国をこのような「僻み」目線で手をこまねいているうちに、朝鮮半島情勢は急激な変化を見せるかも知れない。もし、南北統一という動きが現実のものとなったとき、日本はどのような役割を果たし、どのように動けば良いのか。その時に問われるのは、やはり少なくとも近代以降の日本と朝鮮半島の関わりの歴史をいかに正しく記憶しているか、という「歴史認識」であることは間違いない。そのとき無知でトンチンカンな、偏った歴史認識で立ちむかおうとしたら、失敗するに違いない。
 歴史から生まれた人為的な危機は、各国が知恵を出し合えば解決できる。知恵を出し合わないで、力での解決に向かうことはすべきでない。その知恵とは、東アジア諸国の過去を正しく直視し、世界史的に理解することによってこそ生まれてくるものと思う。<2020/12/16>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

文京洙
『韓国現代史』
2005 岩波新書

文京洙
『新・韓国現代史』
2015 岩波新書

前書に2005~2015の李明博・朴槿恵の記述を追加。


木村幹
『韓国現代史―
大統領たちの栄光と蹉跌』
2008 中公新書

T・K生/「世界」編集部編
『韓国からの通信
1972.11~1974.6』
1974 岩波新書

この第1冊後、1988年までの3冊まで続刊。言論統制下の韓国の状況を知る資料ともなる。

Amazon Video 案内

『国際市場で逢いましょう』
2015 韓国映画

朝鮮戦争やベトナム戦争など、韓国の現代に生きた庶民を描く。

Amazon Video 案内

『1987、ある闘いの真実』
2017 韓国映画

1987年、韓国。全斗煥政権の圧政に対する民主化闘争を描く。