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ギニア共和国

1958年、フランスから独立した西アフリカの黒人共和国。独立の指導者セクー=トゥーレは1961年から84年まで政権を独占した。

ギニア共和国 Googl Map

 19世紀のヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進む中、西アフリカには、モロッコ、サハラから南下したフランス軍が進出していった。その世紀末に、サモリ=トゥーレを中心とする激しい反フランス蜂起が起こり、一時は強大な勢力を持ったが、ついに鎮圧され、フランス植民地とされた。

「アフリカの年」に先立つ独立

 第二次世界大戦後、次第に独立の気運が強まり、サモリ=トゥーレの孫のセクー=トゥーレを指導者とする独立運動が起こった。1958年、アルジェリア問題を乗り切ったフランスのド=ゴール大統領は、各植民地に対しフランス共同体に残留するかどうかの住民投票を認めた。ギニアでは95%の賛成でフランスからの独立を決定し「ギニア共和国」が誕生した。この住民投票による独立は、いわゆるアフリカの年1960年より先行しており、1957年のガーナ共和国に続く先駆的な動きであった。
 ギニア独立に伴い、フランス人官吏はすべて引き揚げたため国家運営は困難に直面したが、独立を主導した初代大統領セクー=トゥーレは次第にソ連や中国などの社会主義国の支援を受けることで乗り切り、自らも社会主義を標榜するようになって、1978年には「ギニア人民革命共和国」という国号に変わった。しかし、セクー=トゥーレは次第に独裁的となり、84年の死去(心臓発作でアメリカで治療中、クリーヴランドで急逝した)まで大統領を独占した。
 セクー=トゥーレ大統領の急死によってクーデタが起こり、権力をにぎったコンテ大佐は一転して社会主義を放棄、国際通貨基金(IMF)・世界銀行の支援に依存して経済を立て直し、政治面では複数政党制を導入するなどの自由化を進めた。
注意 世界史上のギニア地方との違い なお、15世紀以降にポルトガルやイギリスが盛んに黒人奴隷貿易を行ったギニア地方というのは現在のギニア共和国の東に位置するギニア湾沿岸部をさすので注意する。また北隣にあるギニアビサウ共和国は1973年にポルトガルから独立、ギニア湾にある赤道ギニア共和国は1968年にスペインから独立した国で、いずれもギニア共和国とは別な国家である。

現在のギニア共和国

ギニア国旗
ギニア共和国国旗
 ギニア共和国は面積24.5万平方km(日本の本州とほぼ同じ)、人口1,241万人。首都は大西洋に面したコナクリ。公用語はフランス語だが、多くはそれぞれの民族語を使用している。
 1984年のセクー=トゥーレの死去後、民主化が進んだが次のコンテ対統領も長期政権化するに伴って独裁色が強まった。2008年、コンテ大統領の死去に伴って軍の一部が蜂起し、混乱が続くなか、2010年の選挙でアルファ=コンデが当選して、コンデ政権の下で安定が模索されている。
エボラ出血熱の発生 政治不安が続くなか、2014年に南部で当時、感染症のエボラ出血熱が確認され、隣国リベリアやシエラレオネにも感染が拡大、WHOも対策に乗り出し世界的な恐怖が広がった。国際医療チームの懸命の治療により、翌年末には終息宣言が出されたが、未知の感染症への国際的な対応が迫られる事例となった。

Episode サンコンさんの故郷

 “1コ、2コ、サンコン!”でおなじみ、オスマン=サンコンさん(といっても最近めっきりテレビで見なくなったので、若い人は知らないかな?)は、アフリカ人タレントのはしり(ボビー・オロゴンやゾマホンよりも)ですが、このギニア共和国の出身です。1949年、ギニアのボッファ県で生まれ、国立コナクリ大学を卒業し、パリのソルボンヌ大学に留学して外交官となったエリートですが、駐日大使館やアメリカ大使館勤務をへて日本に戻りギニア日本友好協会に勤務しながら、1984年「笑っていいとも」などに出演し、一躍人気者になった。その後も、テレビタレントとして活動しながら日本とギニアの友好を深める活動をしている。9.11では現地に飛んでボランティア活動をおこなった。<wikipedia 情報です>
 2020年5月22日付朝日新聞湘南版によれば、藤沢市民病院にマスクを2500枚寄付したそうです。それは藤沢市が数年前にギニアに中古消防車や救急車を寄贈したお返しで、「在日50年、日本に来て一番好きな言葉は“義理と人情”、“持ちつ持たれつ”」だそうです。<朝日新聞 2020/5/22 湘南版>

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