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パピルス

ナイル川沿岸に自生する草。古代エジプトではそれから紙を作ったので、paper の語源となった。ギリシア、ローマを経てヨーロッパ中世まで使われたが、ヘレニズム時代に現れた羊皮紙に次第に取って代わられるようになる。ルネサンス期以降は東方から伝わった製紙法が普及する。

 古代エジプト文明で生まれた神聖文字(ヒエログリフ)を書き記すためにパピルス草から作った紙が用いられた。メソポタミア文明で生まれた楔形文字は粘土版に彫るのでパピルスは用いられなかった。
パピルスという植物 カミカヤツリ(パピルス)はエチオピアの河川流域が原産で、川の縁や沼の縁の湿地に生える、高さが2~3メートルになる背の高い水草。紀元前3000年頃、ナイル川デルタ地帯のぬかるんだ浅瀬から刈り出され、紙の原料とされるようになった。11世紀の干ばつの影響が出るまでナイル・デルタで繁茂していた。<ビル・ローズ/柴田譲治訳『図説世界史を変えた50の植物』カミカヤツリ p.62>

パピルス紙

 古代エジプトでは、前3000年頃からパピルスの繊維を利用して紙を作ることが始まった。後のローマ時代の博物学者プリニウスの『博物誌』にはその作り方が説明されている。
 それによれば、まずパピルスの茎を針で裂いて細長い薄片にし、それを水で濡らした板の上に縦横に並べて重ね、圧縮して水分を抜き、さらに1枚ごと天日で干し、最後の仕上げに象牙や貝殻でこすってすべすべにする。こうして作られるパピルスには、エジプトで広く用いられ、その中で墓にミイラとともに納められる死者の書に用いられ、神聖文字(ヒエログリフ)が書き記された。エジプトのパピルス技術はその後もギリシア世界に伝えられ、ギリシアではパピュロスといい、プラトンなどの多数の著作もそれに記され、巻物として残された。英語の paper は、その語源がパピルス、パピュロスであると言われている。

パピルス紙から羊皮紙へ

 しかし、パピルス紙は保存には適していないため、多くのものは消滅した。ヘレニズム時代のペルガモン王国で羊の皮をなめした羊皮紙(パーチメント)が使われるようになり、ローマ時代をつうじて羊皮紙が普及し、ヨーロッパでは中世まで記録はその状態が続いた。
 アジアでは、中国の後漢の時代に植物の皮から作るが現れ、次第に高度な製紙法を発達させ、唐の時代には広く用いられるようになった。8世紀にイスラーム世界に伝わり、さらに地中海各地からヨーロッパに伝わって、ルネサンス期の14世紀には羊皮紙に代わって紙が使われるようになる。

参考 書物の歴史の中のパピルス

(引用)・・・紙の発生の新しい歴史が打ち立てられるまでは、紙を発明した名誉はエジプト人に帰しなければならない。エジプト人が最初にパピルスの髄を加工することを思いついたのだ。彼らはそれを割き、交差させて帯状のものにし、これを寄せ集めて紙片にして、糊づけし、乾かし、そして磨いた。
 この製造はたちまち産業化された。パピルスは多かれ少なかれ貴重ないろいろの長所がある。書物は巻物の形をとり、木や粘土の甕の中に保存される。帯状の紙片の高さはふつう、15ないし17センチである。もっとも後にはさらに大きな形、その三倍もの形のが作られた。長さはいろいろで、ハリス・パピルス(大英博物館、9999、133×17センチ)は45メートルに達している。
 斜めに切った葦の茎で、それから(ずっと後には)尖らした葦の茎(葦の筆)で人びとは書いた。ペン(鳥の羽のペン、さらには青銅のペン)は500年ごろにしか現われない。インキは、煤(すす)や木炭に水と水とゴムとを加えてつくられ、木製のパレットの中に保存される。そしてこのパレットの上にはまた葦の筆がおかれる。
 パピルスは早くも紀元前3000年代から存在し、エジプトにおいてのみならず、ギリシアにおいても、書物の主要な支えとなっている。パピルスがギリシアにはいるのは紀元前7世紀であり、ローマにはいるのは紀元前3世紀である。さらにパピルスは716年、マルセイユを経てガリアに輸出され、ローマ教皇庁は11世紀の半ばまでこのパピルスを用いる。<エリク・ド・グロリエ/大塚幸男訳『書物の歴史』初刊1954 文庫クセジュ1992 p.19-20>