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丸都城

高句麗の都とされた山城。鴨緑江の北岸、現在の輯安にあり、近くに広開土王碑が建てられている。

 遼東太守公孫氏に圧迫された高句麗は、209年に鴨緑江北岸の山中に丸都城を築造した。さらに342年に、丸都城の南の平地に、平城の国内城を築造し、丸都城と合わせて高句麗の都城とした。高句麗の全盛期の広開土王(好太王)の碑が国内城近くに建造されている。その後、長寿王の時の427年に都は南方の大同江流域の平壌(現在の北朝鮮の首都ピョンヤン)に移された。
現在は中国領 高句麗の都であるが、鴨緑江の北岸なので、現在は中国領になっていることに注意しよう。丸都城、国内城、広開土王碑は吉林省集安市にある。 → その位置

丸都城

 朝鮮の歴史書『三国史記』には高句麗の山上王の時の209年、都を丸都に移すと記している。しかしまもなく中国の三国の一つの攻撃を受け、242年から3度にわたってその攻撃を受け、丸都城も蹂躙された。しかし、丸都城はその試練の中から、強固な山城として生き残り、広開土王のとき高句麗の全盛期を迎える。
(引用)かつて毌丘倹(かんきゅうけん、魏の高句麗遠征軍の将軍)は高句麗王の宮を追い、「馬を束ね、車を懸けて、丸都に登った」という。丸都城は山腹に築かれた、巨大な山城であった。山城は自然の山稜を利用して築造された。城壁は切り石を積み、総長6950メートルをこえ、東・北・西の尾根をつらねて、南に傾斜する山腹をかこみ、南麓の門址は崩落したままである。城内に宮殿・監視台・軍営所・貯水池などの址が残る。宮殿址とおもわれる東西62メートル、南北92メートルの区域には細長の三基壇がならび、高句麗独特の紅色瓦のかけらが、あたり一面に散らばっているという。<武田幸男他『世界の歴史6』隋唐帝国と古代朝鮮 1997 中央公論社 p.288>

国内城

 高句麗は313年に楽浪郡を、翌年に帯方郡を滅ぼし、朝鮮半島北部に強大な国家を建設した。そのころ半島南部には百歳と新羅が台頭し三国時代となった。高句麗は三国の中で最も優勢であり、揺るぎない大国になった。そのころ、丸都城とその周辺は一段と整備が進み、342年に山城である丸都城の麓の平地に国内城が建設された。現在の中国の吉林省輯安市のをとりまく形で、南北600メートル、東西700m余りの石積みの城壁がほぼ矩形状に残っている。城内の中心部には宮殿、官庁址とみられる建物址も見られる。
(引用)高句麗は山城を築いて根拠地とし、平地に平城をつくり、山城と平城を軍事的・政治的に一体化して、独特のやり方で運営した。山城の丸都城と平城である国内城のワンセットは、高句麗都城の典型をしめしている。このような築造・運営法は、朝鮮半島を中心にひろく用いられ、古代の日本にも影響を与えた。<武田幸男他『世界の歴史6』隋唐帝国と古代朝鮮 1997 中央公論社 p.305>

広開土王碑

 その後、丸都城・国内城は、鮮卑の侵攻(342年)や、百済の攻撃(371年)という試練が続いたが、高句麗の都として存続し、小獣林王の時には仏教を受容し、寺院が建設された。広開土王(在位391~412年)の時代に高句麗は全盛期となり、領土を南方に広げ、半島に進出した倭人(倭国)とも戦っている。それを記念するある広開土王碑は、国内城の跡から北東4キロほどのところの鴨緑江河畔に建っている。
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書籍案内

礪波護/武田幸男
『隋唐帝国と古代朝鮮』
世界の歴史6
1997 中公文庫