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ムワッヒド朝

12世紀にムラービト朝に代わってマグリブを支配したイスラーム教国。1160年、イベリア半島に進出。厳格なイスラーム信仰を掲げた。

 1130年、北アフリカ、マグリブ地方のモロッコベルベル人の建てたイスラーム王朝。首都はマラケシュ。ムラービト朝が遊牧ベルベル人であったのに対し、こちらは定着民であった。

ムワッヒドゥーン

 モロッコ南西部のアトラス山中のベルベル系の定着民マスムーダ族の一人だったイブン=トゥーマルトは1106年頃東方への修学の旅に出発、コルドバ、アレクサンドリア、メッカ、バグダード、カイロなどを歴訪、イスラーム神秘主義のガザーリーの思想の影響を受けてイマーム信仰を説くようになったが、同時にスンナ派的な神の唯一性(タウヒード)を強調した。そこから彼に従う人々はムワッヒド(「神の唯一性を信じる人」の意味、複数形はムワッヒドゥーン。アル=モハド派ともいう。)と呼ばれた。モロッコに戻った彼は1121年にマフディーであると宣言してムラービト朝への反乱を開始し、1124年にはアトラス山中のティンマルに拠点を作った。その弟子アブド=アルムーミン(アブダッラー=ムーミン)は1130年に教団の後継者(カリフ)となり、世襲の王朝ムワッヒド朝を創始した。

マグリブ地方の征服

 まずモロッコ北部一帯を征服して、1147年にマラケシュを占領、ムラービト朝を滅ぼした。そのころ、地中海のシチリアにはノルマン人が進出し、チュニジアアルジェリア海岸にもその勢力を及ぼしていたが、ムワッヒド朝はアルジェリアのハンマード朝、チュニジアのズィール朝(いずれもファーティマ朝の後継国家)を滅ぼし、ノルマン人を撃退してマグリブ地方を統一した。

イベリア半島への侵出

 ムラービト朝滅亡後のイベリア半島は再びイスラーム教小国家に分裂して抗争していた。1160年、アブド=アルムーミンはジブラルタルをわたってアンダルスの征服に着手、その子のカリフ、ユースフのころにほぼ征服を完了した。次のカリフ、ヤークーブ=アルマンスールはキリスト教徒への攻撃を強めようと1195年に大軍を率いてイベリア半島に上陸、コルドバとトレドの中間のアラルコス(アルアラク)でカスティーリャ=レオン王国のアルフォンス8世の軍と戦って大勝し、その後も数度にわたって遠征、トレドを攻撃した。
ユダヤ教徒を追放 ムワッヒド朝は、その発展の初期から、原始イスラーム教の立場に立ち、他の宗派に対して厳しい姿勢で臨んだ。そこには一切妥協はなく、ムスリムでないものはすべて頭にターバンを巻くことを強いられ、従わないものは殺されるか追放された。そのため南スペインのユダヤ教徒のユダヤ人の中には改宗するか、改宗と見せかける者が増え、あるいは寛容な国を求めて逃げる避難民で公道は混雑した。1172年、最後の地方政権が屈服したのでムワッヒド朝はムスリム・スペインを統一した。ユダヤ教徒は一人として国の南部には残れなかった。アンダルシアのユダヤ人社会の栄光は終わった。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.118>

西方イスラーム文化の開花

 ムワッヒド朝の都はマラケシュであったが、イベリア半島のセビーリャは副都として栄え、哲学者イブン=ルシュド(アヴェロエス)がどが活躍していた。またカリフ、ヤークーブ=アルマンスールの時にはセビーリャに「ヒラルダの門」として現存する大モスクが建設された。またモロッコの首都ラバトには、現在は「ハッサンの塔」といわれている大モスクが建設された。

Episode 日本人の見たモロッコの栄華

 戦前の1937年にモロッコを訪れた日本人の紀行文の中に、首都ラバトのヤークーブ=アルマンスールの作った「ハッサンの塔」についての記述がある。
(引用)「ハッサンとは美を意味する。しかしこの塔はその美より巨大さを以って人に印象を与える。塔の高さは44メートル、正方形をなす基底の一辺は16メートル、12世紀末のモロッコの雄王、アブー・ユセフ・ヤクブ・エル・マンスール王の建設に係るもので、26500平方メートルを占める世界最大の回教寺院を付属する筈であったが、これは実現されず、ただ林立している円柱が壮大な計画を物語っているだけである。ハッサン塔と同形のものとしてはマラケッシュのクートゥビア、イスパニアのジラルダ塔(ヒラルダ塔のこと)がある。共に同じマンスール王が自己の勢威を後代に伝えようと造営させたものである。事実この王は単にモロッコ全土を平定したばかりではなく、北はジブラルタル海峡を渡ってイスパニアに侵入し、1195年イスパニア軍をアルコスで敗ったときには捕虜5万、戦利品は天幕5万、駱駝8万、騾馬10万、甲胄7万着という戦史上空前の大勝を得ている。この様なモロッコ回教徒の栄華の時代に想いを馳せて、いま眼前、熱気を孕む光の中でこの荒れはてた塔が寂寞な周囲の中に立って影を地に印しつけているのを見ると、何かしらの果敢なさに誘われる。・・・
このモロッコの過去の栄光に反して、植民地として現状を著者は見ているのである。この紀行文『モロッコ』を残したのは山田吉彦となっているが、実はきだ・みのるのことである。きだは『気違い部落』などで知られる作家で、戦前にはフランスに留学して文化人類学を学んだ人物である。<山田吉彦『モロッコ』1937 岩波新書 p.30-31>

衰退と滅亡

 ムワッヒド軍の攻撃にさらされたトレドの司教ロドリーゴ=ヒメーネスはキリスト教徒に対しムスリムへの反撃を呼びかけた。ローマ教皇インノケンティウス3世は「十字軍」の宣旨を発し、イベリア半島、イタリア、フランスの全土から軍を召集、ナントの司教らの指揮下に多くの騎士が参加した。ムワッヒド朝カリフ・ナースィルは1212年、大軍を率いてジブラルタルを渡り、7月コルドバの北方のラス=ナバス=デ=トロサの戦いで両軍は激突した。この戦いはキリスト教徒側の勝利に終わり、ナースィルはマラケシュに逃げ帰ってアンダルスを放棄した。ムワッヒド軍が敗れた理由を、同時代の歴史家は彼らが建国時の精神を忘れたためであると言っている。この戦いを機にイベリア半島では国土回復運動(レコンキスタ)が再び活発になり、ムワッヒド朝はセビーリャも放棄してモロッコに撤退、さらに各地に反ムワッヒド朝勢力が独立し、1269年に滅亡した。

ムワッヒド朝後の西方イスラーム世界

 ムワッヒド朝が衰退した後の西方イスラーム世界は、アンダルスのナスル朝(1230~1492)、チュニジアハフス朝(1228~1574年)、アルジェリアのトレムセンにザイヤーン朝(1236~1550年)、モロッコのフェスにマリーン朝(1248~1468年)が分立した。ナスル朝は1492年にスペイン王国によって滅ぼされ、モロッコ以外のマグリブ地方はオスマン帝国の支配下に入っていく。
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山田吉彦
『モロッコ』
1937 岩波新書