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マリーン朝

13世紀、モロッコに成立したイスラーム教国。

 モロッコムワッヒド朝に従属していたベルベル人遊牧部族マリーン族が自立して建てた。メリニド朝とも表記する。その建国年代は諸説あるが一般にフェスを占領し、都とした1248年とされている。1269年にはマラケシュを占領してムワッヒド朝を滅ぼした。ムワッヒド朝を滅ぼしたマリーン朝スルタンのアブー=ユースフはアミール=アルムスリミーン(ムスリムたちの長)と称した。ムワッヒド朝後のイベリア半島のナスル朝に対してはたびたび遠征軍を送くった。同時期に東方のアルジェリアにはザイヤーン朝、チュニジアにはハフス朝があった。

フェスの学芸の繁栄

 この王朝はフェスのアラブ系知識人(ウラマー)の支持を得る必要から多数のマドラサを建築した。またチュニス生まれの歴史家として著名なイブン=ハルドゥーンを国璽書記官としてこの王朝に任官している。また、モロッコのタンジール生まれの大旅行家イブン=バットゥータはフェスの宮廷でスルタンに旅の話をし、それを書記のイブン=ジュザイイが記録したのが『三大陸周遊記』である。

ポルトガルの侵略開始

 15世紀にはいると、レコンキスタを進めたキリスト教勢力が、その延長でジブラルタルを超えてモロッコへの侵攻が始まる。まず、1415年にポルトガルのジョアン1世がエンリケ航海王子らと共に北岸のセウタを占領し、そこを拠点にモロッコ西岸を南下し、時には住民を奴隷として連れ去るという侵略を開始した。しかしこの段階では交易要求が主力であったので、植民地的支配は進まなかった。

滅亡とその後のモロッコ

 この王朝の時代から、スーフィズムと共にシャリーフ(ムハンマドの血統を継ぐ人)に対する崇拝が強まった。1465年、フェスの民衆はスルタンを襲撃、殺害し、マリーン朝は劇的な最期を遂げた。その後はマリーン族の一派が建てたワッタース派(1471-1550)を経て、シャリーフ政権であるサード朝(1509-1641)へと移っていく。<佐藤次高編『西アジア史Ⅰアラブ』世界各国史8 山川出版社 2002 p.249-252>
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