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シャー=ナーメ/王書

ガズナ朝のフィルドゥシーが著したイラン人の伝承を集めた著作。11世紀初めに成立。神話・伝承からの題材とと、ペルシア帝国・ササン朝・イスラーム化・トルコ系王朝と変遷したイランの歴史を反映した物語を題材とし、流麗な韻文で綴った大部な書で、イラン人の国民的な古典。

 シャー=ナーメは『王書』と訳す。10世紀から12世紀まで、アフガニスタンからイラン北西部、北インドを支配した、イスラーム教国のガズナ朝マフムード(在位998~1030)の時代の人、フィルドゥシーが著した、イラン人の神話、伝説、歴史を書いた大叙事詩。ペルシア語の韻文と対句で書かれており、イランの民族意識を高めるペルシア文学の最高峰とされている。<岡田恵美子『王書――古代ペルシャの神話・伝説』1999 岩波文庫 以下、同書解説によって構成。なお同書では筆者をフェルドウスィーとしている。>

イラン人の誇りとなっている古典

 シャー=ナーメとは、「王たちの書」を意味するが、日本では一般に『王書』の訳語が定着している。日本で言えば『古事記』にあたる諸王列伝である。作者フィルドウスィー(934?~1025?)は、現在のイラン北東部ホラーサーン州の小村トゥルースに生まれ、当時イランからアフガニスタン、北インドを支配していたガズナ朝の時代に、80歳の生涯の後半を詩人として活躍していたが、その生涯の詳細は不明である。『王書』の完成には記事中に「30~35年の労苦を要した」などの記述があり、最終部に「ヒジュラ暦400年了」とあるので、西暦1009年/1010年にあたる。これは日本の『源氏物語』(1005年頃)と同じ時代にあたる。

『王書』が書かれた時代と背景

 『王書』が書かれたのは、ササン朝ペルシアがアラブの侵攻によって倒れてから三百数十年、それまでのイランの歴史を背景としている。紀元前6世紀に興ったペルシア帝国アケメネス朝が前330年にアレクサンドロス大王によって滅ぼされ、その大帝国が分裂してイランはセレウコス朝シリアに属し、ついで中央アジア起原の異民族国家パルティアが全土を支配し、紀元後3世紀にイラン人が復活してササン朝が成立した。ササン朝は古代ペルシアのゾロアスター教を国教としてペルシア文明を復興させた。それは651年、イスラーム教を奉じるアラブ人によって滅ぼされ、イスラーム化の強行によってゾロアスター教の信仰やペルシア文化は抑えられ、アラビア語の使用が推進された。その後、再びトルコの異民族王朝が興るが、このトルコは現在のトルコではなく、東方の国であり、『王書』では、トゥーラーンとして登場する。第一部第六章でフェリドゥーン王がトゥールに与えた国とされている。
 このような歴史を背景に、『王書』にはペルシア固有の伝承だけでなく、東方のトルコ民族、西方のアラブ民族という民族大移動の波を受けて、複雑多彩な人種の共存・混沌があったことを知ることが出来る。物語の中に、ペルシア対アラブ、ペルシア対トゥラーン(トルコ)といった敵対関係を読み取ることが出来、そこからペルシア民族の意識を高揚させる叙事詩となっている。

ペルシア語で書かれた意味

 アラブの侵略を受けたペルシアであったが、その侵略があってから『王書』が書かれるまでの350年間、かつてのササン朝ペルシアの地域すべてがアラブの中央政権カリフの支配下にあった訳ではない。9世紀に入るとペルシア系やアラブ系、またはトルコ系の地方王朝が現れ、アラブ政権との服従と抵抗を繰り返していた。
 言語においては、かつてのササン朝では宮廷の貴族や武将やゾロアスター教の僧侶はパフラビー語を使っていたが、読み書き出来ない一般民衆は口語としてペルシア語を使っていた。そこに征服者の言語としてアラビア語が入ってきた。ペルシア文学史では「沈黙の二世紀」といわれるアラブ侵略後の言語上の淘汰の時期を意味しており、9世紀の終わり頃から現代ペルシア語に通じる少数の詩作品が生まれてくる。パフラビー語による神話・伝説・歴史の資料がアラビア語に訳され、「沈黙の二世紀」が終わると地方王侯のもとで、それらの原資料のペルシア語による筆録が試みられるようになった。
 出来上がった書物のほとんどは散逸してしまったが、フィルドゥシーが『王書』の作成にあたり用いた作品もあった。ダキーキー(978年ごろ没)はフィルドゥシー自身が先達として認めており、「夢にダキーキーが現れて自分の詩を入れてくれ」と言われたと前置きして、その詩を数千行にわたって挿入している。
 このようにフィルドゥシーの『王書』がペルシア語で書かれたことは、アラブによる征服後の350年を経て、ペルシア人の意識を高め、その文明を復興させるという大きな意味があった。

現代イランでの『王書』

 『シャー=ナーメ』は、王政時代のパフレヴィー朝イランでは国王賛美とペルシア・ナショナリズムの象徴的作品とされてきたために、1979年のイラン革命で王政が倒されてからは、教科書でもほとんど消されていた。ところが、1990年代に改訂された教科書では、フィルドゥシーを「民族の情緒、人類の理想を最も美しく、最も輝かしい形」で作品とした人物として紹介し、彼の詠った『シャー=ナーメ』を「たとえ歴史でなくとも、イラン人の暮らしののなかの出来事をどんな歴史よりも、上手にいきいきと描いた」作品と評している。王政時代の教科書は古代ペルシアの偉大な王を称えるとしていたのとは違い、現在の教科書はイランの学者や詩人、芸術科といった文化人の仕事を、民族の遺産として高く評価している。<桜井啓子『現代イラン――神の国の変貌』2001 岩波新書 p.143 同書ではフィルドゥシーをフェルドウスィーとしている。>