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バンテン王国

バンテンはインドネシアのジャワ島西部の港市。16~19世紀初頭までイスラーム教国バンテン王国(バンタム王国とも表記)があった。16世紀初めポルトガル人が渡来、1596年にはオランダ船が初めて渡来した。

 ジャワ島の西端にある港市バンテンを中心に栄えた港市国家。1526年頃から、オランダに服属する1813年まで、胡椒などの香辛料貿易で繁栄した。ジャワ島東部のマタラム王国とともにイスラーム教を奉じていた。ジャワ島がイスラーム化したのは、東南アジア最初のイスラーム国家で港市国家として栄えていたマラッカ王国が、1511年ポルトガルによって征服されたため、マラッカ海峡を自由に通れなくなったムスリム商人が、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通るためにバンテンに進出したのが契機であった。

ジャワ島西部のイスラーム教国

 初めてイスラーム教を伝えたのはファレテハン、別名スーナン=グヌン=ジャティといい、ジャワ人ではなくスマトラ北端のパセ出身であった。すでにメッカへの巡礼をすませた「ハジ」として尊敬を受けていた彼は、デマ王国の妹と結婚してバンテン付近に勢力を得、デマと協力してパジャジャランを滅ぼし、その子ハサヌッディンの時の1568年に正式にバンテン王国として独立した。ハサヌッディンは領土を広げ、後のジャカルタの地であるスンダ=カラパを傘下に収めて香辛料を主とする貿易王国として栄えた。<永積昭『オランダ東インド会社』1971 講談社学術文庫版 2000 p.26>

オランダ人の進出

 ポルトガル商人は1522年にジャワ島に姿を現し、交易を開始したが、1580年スペインがポルトガル併合し、本国がスペインとの同君王国となることによって次第に後退していった。代わって1596年に、バンテンの港に初めてオランダ(ネーデルラント連邦共和国)船が現れた。
オランダ船の来港 1595年4月、喜望峰を越えて東インドへ向かうための船隊4隻が、合計100門以上の大砲を搭載し、10万ギルダー以上の銀貨や多くの品物を積み込んでアムステルダムを出発した。道中多くの予期せぬ困難に出会い、15ヶ月もかかってようやくジャワ島西部の港町バンテンに到着した。一世紀前のヴァスコ=ダ=ガマの航海と同様、多くの乗員を失ったため途中で1隻を捨て、残りの三隻がようやくオランダに戻ったのは1597年8月のことだった。インドネシア往復に2年4ヶ月かかったことになる。乗組員の数は、当初の240人から87人に減っていた。それでも三隻が戻ったという事実が重要だった。これによって、ポルトガル人の手を経なくとも東方との直接貿易が可能だということが実証され、人びとは沸き立ちアムステルダムを始め北海沿いの多くのオランダの町で商人や金融業者が多くの船が艤装され、争って東方へと送り出された。<羽田正『東インド会社とアジアの海』2017 講談社学術文庫 p.78-79>
オランダ東インド会社 この成功に刺激されてイギリスのロンドンの商人たちはいち早く1600年イギリス東インド会社を設立した。オランダでは各地の商人の話し合いが難航したため遅れ、ようやく1602年オランダ東インド会社が作られた。オランダは1619年にジャカルタを占領してバタヴィアと改称し、その地に商館を設け、アジア貿易の拠点とした。バンテン王国はイギリスに協力して何度かバタヴィアを攻撃したが撃退され、バタヴィアはオランダの拠点として要塞化された。

バンテン王国の衰退

 17世紀にはジャワ島東部ではマタラム王国がバタヴィアのオランダに対抗していたが、バンテン王国もまた、国王アブドゥルファター(1651年即位)のもとで、バンテン港にオランダ以外のイギリス、フランス、デンマーク、ポルトガルの国々、さらに中国商人やマニラ商人などの入港を勧誘し、繁栄した。そのころバタヴィアのオランダ本国は英蘭戦争とフランスの侵攻という危機を迎えており、ジャワ島ではマタラム王国との紛争をかかえていたので、バンテン港には力を注げなかった。しかし、不幸なことに王位を巡って内紛が生じ、オランダの介入を許し、1683年、国王は反乱を起こした息子によって捕らえられ、オランダ側に引き渡され捕らえられてしまった。これを機に1684年からバンテン王国は東ジャワのマタラム王国と同じくオランダ東インド会社の保護を受ける存在となり、またイギリスなどオランダ以外の諸国はジャワ島から撤退し、オランダの優位が確立した。<永積昭『同上』 p.165-167>

バンテン王国の消滅

 その間、バンテン王国はオランダから朝貢品を受けながらなおも存続していたが、1733年以来、王位継承の争いが起こってオランダの介入を受け、1751年にはイスラーム教徒の反乱が起こった。翌1752年、東インド会社はバンテン王国と協定を結び、新たな王の即位を認める一方で宗主権を認めさせ、バンテン王国はあらゆる点で会社の統制のもとにおかれることとなった。王国はなおも名目上は存在したが、1808年に消滅し、国王は退位して王家は年金で生活することとなった。

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永積昭
『オランダ東インド会社』
2000 講談社学術文庫