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イギリス=オランダ戦争/英蘭戦争

17世紀後半に展開された海上貿易の覇権をめぐるイギリスとオランダの戦争。第1次(1652~)はクロムウェルが定めた航海法にオランダが反発、第2次(1665年~)は王政復古期イギリスのチャールズ2世との海戦をオランダが優位に戦い、第3次(1672年~)はイギリスとフランスその他がに呼応してオランダを攻撃した。フランスが両国共通の敵となるにおよび英蘭の対立は解消される。

 イギリスのピューリタン革命で国王を処刑して権力をにぎったクロムウェルの時から始まる、イギリスとオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の前後3回にわたる戦争。イギリスは、共にプロテスタントであったことからも、旧教国スペインからのオランダ独立戦争を援助し、特に1588年にはスペインの無敵艦隊を破るなど、側面からオランダの独立を実現させた。そのようなイギリスの支援で、オランダは1609年には実質的な独立を達成、1648年のウェストファリア条約で国際的に独立を認められた。このように、オランダ独立までの過程ではイギリスとオランダの関係は良好だった。それにもかかわらず、17世紀後半から一転して両国は戦争状態に入る。それは、通商国家として先行したイギリスに対して、新興勢力オランダが台頭し、両者が海上覇権を争うこととなったという図式である。

17世紀 オランダの台頭

 17世紀に入るとオランダは1602年オランダ東インド会社を設立、海外進出を積極化させ、さらに1609年に実質的な独立を達成、ヨーロッパの中継貿易に進出して利益を上げ、また新大陸・東南アジア・日本に進出して、イギリスとの利害が対立するようになった。1623年アンボイナ事件もその一つである。この三十年戦争の時期にオランダは海洋帝国として発展し、1648年ウェストファリア条約で国際的にもその独立が認められた。

イギリス、航海法制定

 そのような中で特にイギリスの貿易商からオランダ勢力を抑えるよう議会に要望が出され、それが実現したのが1651年のクロムウェルの時の航海法であった。クロムウェルは必ずしも賛成ではなかったが、貿易商らの要請を受けたジェントルマン層の主導する議会に押し切られた。航海法はイギリスおよびその植民地の港に商品を運搬して入港する船は、イギリス船か、その産出国ないし最初の積み出し国の船でなければならないと定め、各地の商品をイギリスの港にも運んでいたオランダの中継貿易に打撃を与えようとしたものであり、国家が貿易を管理し、自由な交易を認めない、典型的な重商主義政策であった。
 これによって両国の対立は決定的となり、ついに戦闘に転化して英蘭戦争(イギリス=オランダ戦争)となり、17世紀後半に3次にわたって展開されることとなった。17世後半の重商主義段階で、ヨーロッパで海上覇権をめざした二つの海上帝国が衝突した戦争(主として海戦として展開)であるが、アメリカ新大陸や日本もふくめてアジアでの両国の対立の影響がおよぶ世界的規模の戦争であった。

オランダの状況

 ネーデルラント連邦共和国(通称オランダ)は共和国であったが、軍事権を持つ最高司令官であるオランダ総督の地位はオラニエ公ウィレム以来、オラニエ家(オレンジ家)によって世襲されており事実上の国王といえる。しかし都市貴族の中にはオラニエ家の支配を認めず完全な共和政にとしようとする動きも強く、17世紀後半はオラニエ派と共和派が激しく対立している状態だった。しかし、中継貿易の利益を守り海外植民地を獲得するという国家目的は両派は共有していた。そのオランダにとって旧宗主国スペインは衰えつつあり、海上においてはイギリス、陸上においては隣接するフランスが大きな脅威となりはじめていた。
 1641年、オランダ総督の息子ウィレム(2世)14歳とイギリス(厳密にはイングランド)王チャールズ1世の長女メアリ10歳が結婚、1651年、二人の間の子として生まれたのがウィレム(後のウィレム3世=イギリスのウィリアム3世)であった。イギリス王チャールズ2世はメアリの弟だったから、ウィレムは甥にあたる。そのため、イギリスとの戦争を主導することはできず、ウィレムは総督の地位をはずされ、オランダは無総督となっていた。そこでオランダ連邦議会は共和派のハンス=デ=ウィットを実質的な首相に選出し、その友人デ=ロイテルが提督として海軍を指揮することとなった。

第1次:1652~54年

 イギリスは航海法に基づいてオランダ船に対して臨検捜索を通告し、取り締まりを開始した。1652年5月29日、ドーヴァーでオランダ商船がイギリス艦艇の臨検を拒否、護衛していた艦隊同士が互いに砲撃し、開戦となった。イギリス海軍が準備万端であったのに対し、オランダ海軍は準備不足のため多くの船舶を失い、指揮官トロンプ提督も戦死し、敗れた。しかし、翌1653年に護国卿となったクロムウェルは戦争継続を望まず、1954年にウェストミンスター条約で講和した。このときクロムウェルはオラニエ公を総督にしないことを約束せよとせまり、デ=ウィットもそれを受け入れた。クロムウェルは自らが処刑した国王チャールズ1世の娘婿であるウィレム(後のウィレム3世)の総督(実質的なオランダ国王)就任を恐れたのだった。<リートベルゲン/肥塚隆訳『オランダ小史』2018 かまくら春秋社 p.178>

第2次:1665~67年

 王政復古後イギリスのチャールズ2世はさらに通商上の利益の独占を目指して航海法を更新すると共に、1664年には新大陸のオランダ植民地ニューネーデルラントを侵略、その中心ニューアムステルダムを占領してニューヨークと改称した。反発したオランダが宣戦布告して1665年に第2次英蘭戦争が起こった。
 第1次での敗北を反省したデ=ウィットは海軍の増強(その原資は、オランダが長崎貿易で得たが充てられたという)、海軍提督デ=ロイテルは艦隊の訓練を重ね、今回は十分な態勢をっていた。1666年6月にはノースフォアランド岬沖で「四日海戦」と言われる激戦(17世紀最大の海戦と言われた)でオランダ海軍が大勝利を占めた。さらに、オランダ海軍は、テムズ川支流メドウェー川をさかのぼり、イギリス海軍の基地チャタムを襲撃して戦艦を焼き払い、旗艦ロイヤル・チャールズ号を奪うなどの戦果を挙げた。こののロンドンを脅かすオランダ海軍を指揮したデ=ロイテル(ライテルとも表記)は、現在でもオランダで最も人気の高い歴史上の人物となっている。
(引用)デ=ライテル(引用者注、ロイテルに同じ)提督は乗組員たちが艦砲を迅速に発射できるよう訓練し、船長や将官らが命令に従って自在に艦船を操れるよう徹底的に指導した。彼は勇気と細心さを併せ持ち、変転する戦況に応じて思うままに艦船を展開することができ、現に華々しい戦果を挙げた。乗組員からの信望も厚く、ついたあだ名は「祖父ちゃん」であった。戦勝に浮かれもせず、ある目撃証言によれば、「四日間海戦」後も提督は艦長室を自分で掃除するなど普段通りだったという。<桜田美津夫『物語オランダの歴史』2017 中公新書 p.102>
 しかし、新たなフランスの脅威を感じたデ=ウィットは講和を急ぎ、1667年にブレダ条約を締結、航海法の一部緩和(ドイツ産品の搬入を認める)し、イギリスが南米スリナムをオランダに譲渡する代わりに、ニューアムステルダムは返還せず、イギリス領とされた。
注意 第2次英蘭戦争の勝敗 第2次英蘭戦争の講和条約でイギリスはニュー・アムステルダムを獲得し、その地が後にニューヨークとして大発展したことから、この戦いをイギリスが勝利したと思いがちであるが、それは錯覚である。当時、イギリスが得た土地は寒冷な生産力の乏しいところと考えられており、それに対してイギリスからネーデルラントに譲られたスリナムは熱帯にあって砂糖などのプランテーション建設に適しており、しかも内陸には金鉱があることも期待され、格段に価値は高いとされていた。オランダにとって数段有利な取り引きだったのであり、それは第2次英蘭戦争が四日海戦、チャタム占領などネーデルラント側の大勝利だったためである。 → ニューヨークの項を参照
 このページでも第2次英蘭戦争をイギリスの勝利のように誤って記載してしまったので、ここで訂正します。ご指摘いただいたAMX MBT氏に感謝します。

第3次:1672~74年

 イギリスのチャールズ2世がフランスのルイ14世とのドーヴァーの密約を結んだことにより、1672年にフランスのオランダ侵略(オランダ戦争)に呼応してほぼ同時にオランダを攻撃した。
 陸上では、ルイ14世のフランス軍に加えてドイツのミュンスター、ケルンの領邦も加わり、オランダは内陸深く侵攻され、「災厄の年」(ランプヤール)といわれる危機に陥った。ルイ14世自身の率いるフランス軍は6月にはユトレヒトを占領した。すると敗因はデ=ウィットが海軍重視で陸軍の強化を怠ったからだという批判がオラニエ派から強まり、煽動された民衆がデ=ウィットを惨殺する事件が起きた。民衆の中にもウィレムによる戦争指導に期待する声が高まり、オラニエ派はウィレムを総督につけた(ウィレム3世)。デ=ロイテルは親友デ=ウィットの無慙な死に衝撃を受けたが、ウィレムに説得されて提督に復帰、三たびイギリス海軍と戦い、ここでも見事な操船を見せてイギリス海軍を撃破、上陸を阻止した。
 チャールズ2世は議会の支持を得ない戦争であったため財政難となって戦争を続けられず、1674年に講和した(フランスとオランダの戦争は78年まで続く)。

参考 英蘭戦争への誤解

 高校の世界史教科書では、英蘭戦争について、「両国の戦いは、その後60年代、70年代にもあったが、イギリス優勢のうちに終わった」<山川出版社『詳説世界史B』p.225>、「3回のイギリス=オランダ(英蘭)戦争をつうじて、17世紀末には世界貿易の覇権争いで優位にたった」<同p.233>とあるのが標準的で、中には「オランダは、3度の英蘭戦争を戦ったが、いずれも勝利にはいたらなかった」<帝国書院『新詳世界史B』p.168>とさえ書いてある。また「イギリスは、イギリス=オランダ戦争によって、オランダからニューネーデルラント植民地を奪い、その中心地ニューアムステルダムをニューヨークと改称した」と本文にある。
 しかし3回の英蘭戦争の経緯を見てみると、とても「イギリスが勝った」とは言い切れないのが事実である。勝ったのは第1次だけで、第2次、第3次はまったくの敗戦だった。またニューアムステルダムも勝利の代償として得たものではなかった。
 この戦争をイギリス側から見てしまうのは日本の世界史教育で無意識のうちに陥っている「イギリス中心史観」の誤りと言える。また、イギリス・オランダという2間の対立だけを見ていると、ウィレム3世がウィリアム3世としてイギリス国王になっていくわけもわからなくなってしまう。それぞれがかかえていた王権と議会の対立、それにフランスの動きを加えて見ていく必要がある。
 英蘭戦争を「イギリスの勝利」と単純化してしまうのでなく、その経過をとくにオランダ側、そしてフランスの動きを加えて理解すれば、世界史の大きな流れとして、「17世紀前半に海上覇権をにぎったオランダは、同世紀後半の英蘭戦争でイギリスに対して優位な戦いをしたが、18世紀にはイギリスとフランスの覇権争いが主流となり、オランダは衰退した」というべきであろう。
 問題は、英蘭戦争では優位に戦ったオランダはなぜ衰退し、必ずしも戦争では勝てなかったイギリスがなぜ隆盛に向かったのか、と言うことではないだろうか。それについては、帝国書院の教科書が欄外の注で「オランダが後退した理由」として
(引用)17世紀には、イギリスが航海法を制定したほか、オランダ商人が独占していた香辛料の人気がなくなり、インド産の綿織物や中国の茶がもてはやされるになった。毛織物業でも、職人の賃金が高かったオランダは国際競争力を失っていった。<帝国書院『新詳世界史B』p.168>
といっているのが、良心的に解答を示そうとしている例である。これだと、インド貿易・中国貿易にオランダが食い込めなかったこと、国際競争力を失ったことが理由とされている。
 イギリスが隆盛に向かった理由には触れていないが、ここで想起すべきは、17世紀後半の英蘭戦争に「勝った」からではなく、18世紀にイギリスが大西洋を舞台にした三角貿易(17~18世紀)、特に黒人奴隷貿易で大きな利益を得るようになり、また新大陸やインドでのフランスとの植民地戦争で勝利を占めていったことであろう。

Episode サンドイッチ伯爵の戦死

 この第3次英蘭戦争で、イギリス海軍はフランス海軍とともに、オランダ上陸作戦を展開した。その時イギリス海軍を指揮したのは、初代サンドイッチ伯爵エドワード・モンタギューだった。彼ははじめは議会派の軍人として第1次英蘭戦争に参加した。クロムウェル没落後に王党派に鞍替えし、1660年にチャールズ2世の王政復古に尽くして伯爵の爵位と領地としてケント州サンドイッチを与えられ、初代サンドイッチ伯となった。第2次英蘭戦争に参加した後、第3次では海軍大将として指揮したが、1672年2月、オランダ上陸を目指し反撃されて敗れ、彼自身も戦死した。その後もサンドイッチ伯爵家はイングランドの名門貴族として現在まで続いており、特にその第4代ジョン・モンタギューは国務大臣の要職にありながら賭博が好きで、ゲームの最中に食べられるようにということで考案したのがサンドイッチだ、といわれている。もっともこの食事スタイルはそれ以前からあったようで、彼が考案したのではなく、特に好んだところから1760年代からサンドイッチと呼ばれるようになったらしい。この第4代サンドイッチ伯爵は、クックの太平洋大航海の財政支援もしており、クックはそのお返しに、新たに発見したハワイ近郊の島を「サンドイッチ島」と命名した。

その後の英蘭関係

 オランダ総督ウィレム3世は、1677年にジェームズ2世の娘メアリを妻として迎えて、イギリスとの提携に転換した。まさに政略結婚であった。その結果、ルイ14世も講和に応じ、1678年、ナイメーヘン条約でネーデルラント連邦共和国の全領土が最終的に保全された。しかし、その後もフランスの脅威はますます強くなったので、オランダにとっての仮想敵国はイギリスではなくフランスになっていった。
 1688年、イギリスのジェームズ2世が議会と対立すると、イギリス議会はその娘メアリーの嫁ぎ先であったオランダ総督ウィレム3世に出兵を要請、それに応えてウィレムはメアリーとともにイギリスに上陸し、協同統治者ウィリアム3世となった。これが名誉革命であるが、ウィレム3世はイギリス議会の要請に応えるというより、イギリスと一体となることでフランスの脅威に対抗できると考え、積極的にドーヴァーを渡ったのだった。
 以後、ウィリアム3世は、イギリス内部の王党派やカトリック勢力=親フランス派と激しい戦闘を繰り返しており、イギリス=フランスの同盟成立を自らの手で阻止することに全力を傾ける(これが名誉革命後の事実であり、無血革命というのも事実と異なっている)。こうして一体化を維持したイギリス・オランダは、フランスのルイ14世を共通の敵として、次のスペイン継承戦争を戦うこととなる。この戦争が18世紀最初の年、1701年だったことは象徴的で、国際関係の対立軸がイギリス対フランスに転換したことを示している。そして開戦の翌1702年、ウィリアム3世は落馬がもとで死去する。それによってイギリス・オランダは分離し、オランダは世界史の中心軸からはずれざるを得なくなっていく。
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書籍案内

桜田美津夫
『物語オランダの歴史
大航海時代から「寛容」国家の現代まで』
2017 中公新書

ペーター・リートベルゲン
肥塚隆訳
『オランダ小史』
先史時代から今日まで
2018 かまくら春秋社
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ロエル・レイネ監督
『提督の艦隊』
2015 オランダ映画

Michiel de Ruyter が原題。第2次英蘭戦争でオランダを勝利に導いたミヒール=デ=ロイテル提督を柱に、当時のオランダの政治、イギリスとの駆け引きなどを描く。デ=ウィット、ウィレム(後のウィリアム3世)、チャールズ2世などが出てくる。何よりも本格的な帆船の海戦シーンに迫力がある。イギリス=オランダ(英蘭)戦争学習の参考になる真面目な映画。