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ペトラルカ

14世紀、フィレンツェのルネサンス期の詩人。『叙情詩集』などの詩集を著し、人文学者としても活躍した。

 ペトラルカ Francesco Petrarca 1304~1374 はルネサンスを代表する文学者の一人。1302年のフィレンツェでは政争があいつぎ、黒派(強硬派の中の保守派)が権力を握ったとき白派(同じく革新派)の多くは国外に亡命した。そのとき、ダンテと一緒にアレッツォに亡命したペトラッコという人の子で、1304年に生まれたフランチェスコがペトラルカである。一家は当時、「教皇のアヴィニヨン捕囚」によって教皇庁がおかれていた南仏アヴィニヨンに移住、そこで少年時代を過ごした。
 ペトラルカはボローニャ大学で法律を学んだが、そこでウェルギリウスキケロセネカなどのローマのラテン文学、古典文学に触れ、アヴィニヨンに戻っていったん聖職者となったが、文学への情熱が強く、ラテン語による詩『アフリカ』(ローマ時代の属州アフリカを題材としたもの)を発表した。またラウラという理想的な女性に触発され、ダンテの『神曲』の影響も受けて、抒情詩『カンツォニエーレ』(『叙情詩集』)をトスカナ語で連作した。ラウラは1348年の黒死病(ペスト)の大流行で死んだが、『カンツォニエーレ』にはその死を悼む作品である。ペトラルカは文学者であるだけでなく、ルネサンス最初の人文主義者(ヒューマニスト)と言うことができる。

Episode 詩人を魅了した理想の女性

 1327年4月27日、アヴィニヨンに帰ってからも文学研究に明け暮れていたペトラルカは、聖女クララ教会で若い人妻ラウラに出会い、その日から生涯、報われぬ愛に苦しめられることになった。生活のために聖職者になったが、文学に熱中する一方、ラウラに寄せる純粋な恋をいだきながらも複数の女性と関係をもち37年には私生児ジョバンニが生まれる。奔放な生き方と虚栄にみちた生活に疑問を感じ始めたころ、古代ローマ末期の教父アウグスティヌスの『告白』を読み、衝撃を受ける。ローマに出て詩作に励み、41年は盛大な式典で市民からの大歓呼に迎えられ、「桂冠詩人」の栄光に輝いた。その一方では43年に二人目の私生児フランチェスカが生まれる。栄誉を手にした自分の半生を振り返るとき、聖職者でありながら二人まで私生児を設けるという罪深さに悩むようになった。1342~43年、ペトラルカは『わが秘密』を書いた。それはアウグスティヌスと自己との対話という形式で、人間のもつ「七つの大罪」すなわち高慢、嫉み、貪欲、野心、大食、怒り、情欲、怠惰をとりあげ、魂の病気から救われる途を探った。そこにはラウラの死の予感におびえるペトラルカの姿あった。<ペトラルカ/近藤恒一訳『わが秘密』岩波文庫 解説>

人文学者ペトラルカ 近代的歴史観の目覚め

 ペトラルカは、詩人としてだけでなく、ルネサンスの人文主義者として、重要な存在である。ポルトガルの船乗りが地理上の発見で果たしたと同じ役割を、ペトラルカは「古典文明」の発見において果たした。彼はローマの古代遺跡を、単なる古代の驚異としてではなく歴史研究の対象として観察し、ヴェローナでは古文書の山の中からキケロの書簡を発見し、歴史研究の資料とした。ペトラルカは、初めて「近代的な歴史観に目覚め」た人物であったと言える。
(引用)1337年に初めてローマを訪れたペトラルカは、フランシスコ会の修道士コロンナに案内されて廃墟のなかを何時間も歩きまわり、すばらしい時を過ごした。ペトラルカは、これらの遺跡を手がかりに古代の生活様式を推測して、そうした古代人の暮らしぶりをコロンナにあてた長文の手紙の中に活写し、また、スキピオ・アフリカヌスをうたった詩では栄光の時代ローマを描き出して見せた。石に刻まれた碑文は見まがうことのない過去からのメッセージだった。さらにペトラルカは、手がかりを求めて古文書の山をあさった。そして1345年にヴェローナでペトラルカは、同僚の政治家にあてたキケロの書簡を大量に発見した。その結果、教科書ではいかにも無味乾燥に描かれるだけだったキケロ像が、溌剌としたローマ人に変貌して人々に親しまれるようになったのだが、そんなキケロの思想もいわは古代ローマの生活から生まれたものなのである。ペトラルカは、硬貨も史料として利用したが、これはスエトニウスの難解な文章を読み解くのに役だった。こうして、埋蔵品が掘りだされるたびに、ペトラルカは鑑定を依頼されるようになった。<D.ブアスティン/鈴木主税・野中邦子訳『西暦はどうやって決まったか(大発見⑤)』集英社文庫 1991 p.50>

Episode 古文書鑑定士ペトラルカ

(引用)神聖ローマ皇帝カール4世(1316~78年)は、(アウグストゥスが書いたという)「オーストリア」を帝国の領土から解除すると書いた古文書にぶつかったとき、その処理に困ってペトラルカに鑑定を依頼し、偽造であるという言質を得た。ペトラルカは1355年に結論を下している。
「この文書の作者は不明だが、学者でないことは確かで、せいぜい中学生なみの無学な人物であり、偽書をつくりたいという欲求はあっても、その技量がなかったのだろう。さもなければ、こんなばかげた間違いをおかすはずがない」
 ペトラルカが指摘した間違いとは、以下のようなことだった。文書のなかで皇帝が一人称として複数形の「われわれ」という言葉を使っていること(実際には、いつでも単数形を用いていた)、自分をさして「アウグストゥス」と言っていること(この言葉は、彼の後継者たちの代になってやっと用いられるようになった)、日付が「わが治世第一年の金曜日」としか書かれていないこと(月も日も落ちている)などである。<D.ブアスティン『同上書』 p.51>
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<ペトラルカ/近藤恒一訳
『わが秘密』
1996 岩波文庫>