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連合会議

大陸会議を継承した、1781年から89年までのアメリカ合衆国の中央政府。外交権は付与されたが徴税権・徴兵権はなく、弱体であった。

 アメリカ独立戦争遂行の最高機関であり、中央政府であった大陸会議(Continental Congress)を、1781年3月のアメリカ連合規約の発効後は、慣例的に「連合会議」と呼んでいる。英語ではともに Continental Congress であり、同じく中央政府の役割を有しているが、1774年9月~81年3月までを大陸会議といい、81年3月から89年までは連合会議といって(日本では)区別している。なお、「連合議会」と記述している概説書もある。
 アメリカ連合規約は第1条で国家の名称を「アメリカ合衆国」と定めるとともに、重要な決定を全ステーツ(邦)一致を原則とし、中央政府にあたる連合会議には、宣戦布告・講和、条約締結などの外交権は付与したが、課税権や徴兵権は認めなかった。課税権や徴税権は各邦が持つとされた。従って、連合会議は中央政府としては弱体であり、当初からその権限を強めるべきだとの意見があった。また、アメリカ合衆国憲法の制定も必要であるとの意見も強まり、連合会議は1787年、ハミルトンの提案によって憲法制定会議を召集し、同年9月にアメリカ合衆国憲法が成立、88年に施行された。それによって明確な三権分立規定の下、立法府としてアメリカ連邦議会、行政府としてアメリカ大統領アメリカ連邦政府がつくられ、連合会議は役割を終えた。

北西部条例の制定

 連合会議はアメリカ合衆国の中央政府としての役割をもっていたが、課税権や対外通商を規制する権限もなく、各邦からの拠出金で運営されたに過ぎなかったため、財政基盤が弱かった。このように連合会議はアメリカ合衆国憲法制定までの過渡的な機関ではあるが、1787年に「北西部条例」の制定に成功している。
 北西部条例とは、アパラチア山脈以西、オハイオ川以北のアメリカ合衆国の領土を、将来、三ないし五の地域に分け、人口(選挙権を有する成年男子)が5000人に達したら「準州」として自治政府を設けることができ、さらに準州の白人住民が6万人に達すると「州」に昇格し、旧来の13邦と対等の資格で連合に加入できることを定めるとともに、その全域において黒人奴隷制度を廃止する、と言う内容であった。やがてこの地からオハイオ州、インディアナ州、イリノイ州などが州に昇格し、それらは自由州となったので、南部諸州は対抗して奴隷州を増やそうとし、アメリカの国論を南北に分断する大問題となっていく。
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書籍案内

大下尚一他編
『アメリカハンディ辞典』
1989 有斐閣

アメリカ史に特化した簡便な辞典。大陸会議と連合会議の項など、参考になった。