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奴隷州

アメリカ合衆国で南北戦争以前に、奴隷制を認めていた州。

 アメリカ合衆国で、南北戦争前に、黒人奴隷制を認めていた州のこと。slave state といわれる。 → 自由州

建国当初の奴隷州

 アメリカ合衆国のオリジナル13州は、奴隷制を廃止するかどうかは各州の判断に委ねられ、サウスカロライナとジョージアは奴隷制を維持することを条件に合衆国に加わった。その他の11州はマサチューセッツを除き奴隷制を認めていたが、合衆国発足とともにほとんどが奴隷制を廃止した。結局13州で奴隷州となったのは、メリーランド、ヴァージニア、デラウェア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージアの6州、自由州となったのはマサチューセッツ、ニューハンプシャー、ニューヨーク、ペンシルヴェニア、コネティカット、ロードアイランド、ニュージャージーの7州だった。 → 南部の綿花プランテーション

北西部条例と南西部条例

 建国時の13州以外にアメリカ独立戦争でイギリスから獲得したオハイオ川、ミシシッピ川、五大湖に囲まれた地域については、すでに1787年の連合会議で制定されていた北西部条例によって公有地(合衆国の管理下におかれる土地)とし、3~5の地区に分けて連邦議会任命の知事によって統治され、成年男子が5000名に達すると準州(テリトリー)として議会を設置し、一定の自治をおこなうことが認められ、さらに住民が6万人に達すれば独立州として連邦に加盟することができると規定されていた。同時に、北西部条例ではこれらの州では奴隷制は禁止されていた。
 なお、1790年には「南西部条例」が制定されている。こちらは独立によって獲得したアメリカの領土のうち、ミシシッピー川以東、オハイオ川以南、つまり北西部領土の南側に位置する南西部領土の統治法を定めたもので、「準州」から「州」への昇格基準は北西部条例とほぼ同じであるが、ただ一つ、大きく異なるところは奴隷制度を認めたことであった。<杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』2010 集英社文庫 p.28>

ルイジアナの獲得

 北西部条令対象外の土地や、1803年にフランスから購入した広大なミシシッピ以西のルイジアナも公有地とされたので、準州から州に昇格するルールは同じであり、その際に奴隷州を認める州(奴隷州)とするか認めない州(自由州)とするかは、連邦議会が決定権を行使することになった(しかしこの点は後に憲法違反と指摘される問題が起こる)。

自由州とのバランス

 その後、自由州としてヴァーモント、オハイオ、インディアナ、イリノイの4州、奴隷州としてケンタッキー、テネシー、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマの5州が成立し、1819年までに、自由州が11、奴隷州が11の同数となり、「半分奴隷で半分自由」というバランスがとれた状態となった。連邦議会の上院の議席数は人口比ではなく、州ごとに同数だったから、議会内で両派のバランスがとれることにもなる。このころメーソン=ディクソン線という北緯39度43分26.3秒の線が自由州と奴隷州の境界と意識されるようになった。

ミズーリ協定

 こゝに一つ問題が生じた。ルイジアナ州の北部のミズーリ準州が州への昇格を要求してきたのだ。ミズーリはルイジアナと同じくフランス植民地であったので奴隷制が認められており、当然のように奴隷州としての加盟を要求した。ミズーリはメーソン=ディクソン線よりも北に位置し、なによりもそれを奴隷州と認めれば、州の数の上でのバランスが崩れる。
 そのころ、南部の綿花プランターや大地主は、工業化を進める北部に対して対抗するためにも、黒人奴隷制の維持拡大は不可欠と考え、ミズーリの奴隷州としての州昇格をその突破口としようと考えており、それに対して北部の世論は非人道的な奴隷制への非難、奴隷制の廃止による労働力の創出などを期待する産業資本家は、奴隷州としてのミズーリの州昇格に強く反対した。激しい議論の中から、妥協案として浮上したのがミズーリ協定であった。
 その妥協策としてそれぞれの州の数の均等にしようという案が浮上、1820年のミズーリ協定が成立した。それはミズーリ州を奴隷州とするとともにマサチューセッツ州から自由州としてメーン州を分離させ、両者を同数とするとともに、北緯36度30分以北には新たな奴隷州をつくらないという取り決めであった。

カンザス・ネブラスカ法

 1820年のミズーリ協定の時期には、南部の11州が奴隷州だった。しかしさらに40~50年代に西部開拓が進み、買収や戦争で西方に領土を拡張していく過程でも問題が深刻になっていった。それは、北部の自由州地域が産業が発達して人口が増えたのに対して、南部の綿花プランター地域は北部経済に依存する度合いが強くなり、特に南部の大農園主の中にこのまま黒人奴隷制が衰退すれば、自分たちの存立基盤が失われるという危機感が強まり、奴隷州の数を増やそうという意識が強まることとなって現れた。彼らの意図を汲んだ民主党が議会で運動し、1854年のカンザス・ネブラスカ法を成立させたのだったが、それによってミズーリ協定が破棄されることになるので、北部の奴隷制拡大反対派の対抗心を強めることとなり、彼らが共和党を結成する。

南北戦争

 1860年、奴隷制拡大反対のリンカンが大統領に当選したとき、奴隷州は15州であったが、そのうち11州はアメリカ合衆国から脱退してアメリカ連合国を建国、北部主体の連邦政府とのあいだで南北戦争に突入した。なお、デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリの諸州は奴隷州であったが、アメリカ連合には加わらず、中立の立場を取った。
・南北戦争での南部奴隷州11州:ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、テネシー、ジョージア、アラバマ、フロリダ、ミシシッピ、アーカンソー、ルイジアナ、テキサス

自由州

アメリカ合衆国で南北戦争以前に奴隷制を禁止していた州。

 アメリカ合衆国が発足したとき、すでに奴隷禁止を決めていたのはマサチューセッツ州だけであったが、北部諸州は順次、奴隷制禁止に踏みきり、南部のサウスカロライナとジョージアだけは奴隷制を維持していた。その後、アパラチア以西に合衆国領土が拡がっていき、準州から州に昇格するところが相次いだが、それらは州が奴隷制か自由州か決めるのではなく、そのつど、連邦議会が決めていった。
 次第に北部の工業と南部の綿花プランターという産業の違いが明確となり、経済力に差が出てくると、南部諸州は黒人奴隷制度への依存度を強め、新しい州を奴隷州とすることをむようになり、北部はそれに反対するという対立が生じてきた。
 1820年、ミズーリ協定の時期には、北部の11州が自由州 free state となった。1850年にはカリフォルニア州を自由州とし、そのかわり逃亡奴隷法を施行して奴隷逃亡の取り締まりを強化することで妥協が成立した。しかし、1854年のカンザス・ネブラスカ法で、ミズーリの西部に拡がる広大に地域に設けられたカンザスとネブラスカは、州に昇格するとき住民の意思でそのいずれかに決するとされた。そのため、カンザス州には北部と南部からそれぞれ武装した移住者が押しよせ、各地で衝突が起き、「流血のカンザス」といわれる事態となった。そのような対立激化からついに1861年に南北戦争に突入する。その時、自由州であったのは次の18州であった。
・南北戦争での北部自由州18州・メイン、ニューハンプシャー、ヴァーモント、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネティカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、オハイオ、インディアナ、イリノイ、アイオワ、ミネソタ、ウィスコンシン、カンザス、オレゴン、カリフォルニア
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杉田米行
『知っておきたい
アメリカ意外史』
2010 集英社新書

意外とまじめなアメリカ意外史。