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英仏通商条約(1786)

1786年、フランスがイギリス工業製品の輸入を認めた条約。イギリス工業製品がフランスに流入し、フランス工業は打撃を受け、フランス革命の一因ともなったといわれている。イーデン条約とも言われる。フランス革命が起こると1793年に破棄された。ナポレオン時代保護貿易に戻る。

 1786年アンシャン=レジーム期のフランス・ブルボン朝と、産業革命期のイギリス(トーリ党ピット内閣)が結んだ通商条約。イギリスでフランスとの交渉に当たった人物の名からイーデン条約ともいわれている。この条約はフランス革命期の1793年に破棄された。1860年に新たな英仏通商条約が制定されているので違いに注意しよう。

英仏間の自由貿易協定

 財政困難が続くフランスが、国内産業の振興を狙い、それまで長く敵対し、英仏植民地戦争を戦っていたイギリスとの関係を転換し経済協力関係を結ぶことにした。しかし、フランスが妥協し、イギリス製工業製品の輸入関税の引き下げに応じたため、イギリスの安価な工業製品が一気に流入したため、綿工業などフランスの国内産業が打撃を受けることとなった。このようなブルボン朝の外交、経済政策の失策は、ブルジョワや都市民の政権への不満を強め、フランス革命への伏線の一つとなった。
(引用)1786年、自由貿易的色彩をもつ、英仏通商条約が重農主義者デュポンなどの活動によって結ばれたが、これはイギリスの工業製品とフランスの穀物・ブドウ酒などを結びつけたものであって、ルーアンの綿織物をはじめフランス産業は競争に敗れて衰退せざるを得ない結果となった。このことは、産業家のあいだで産業保護の要求をたかめ、労働者は不況をこの条約のせいにしたが、・・・この条約によって王権はかならずしも国民的利益を代表しないという考えが広く浸透しはじめたのである。」<河野健二『フランス革命小史』岩波新書 1959 p.65>

英仏通商条約の破棄

 フランスのブルボン朝政府はこの英仏通商条約でイギリスの工業製品の輸入を認め自由貿易に舵を切ったため、自国産業が打撃を受けることとなった。ブルボン朝を倒したフランス革命で成立した革命政権はブルジョワジーの要求を入れ、自国産業を保護するために輸入を制限する保護貿易主義に戻った。1791年2月には一般関税法を制定し、保護関税を設定して国民的産業のために国内市場を確保することを明らかにした。ついで1793年3月1日の法令で革命前のブルボン朝が締結した英仏通商条約(イーデン条約)を破棄するとともに、綿織物・毛織物をはじめとする商品の輸入を禁止し、同年10月9日にはイギリスの統治する諸国で製造された一切の商品を追放するという法令を定めた。それはイギリス製品を輸入、販売、所有、使用する者を反革命容疑者として罰することを含んでいた。
 これは同年1月のルイ16世処刑を契機にイギリスのピット政権が対仏大同盟(第1回)を結成して革命への干渉姿勢を明らかにし、英仏間の軍事衝突が始まって、フランス国内に愛国主義(パトリオティスム)と反英感情が盛り上がったことと結びついていた。
 さらに、1793年9月には「航海法」を出し、フランス本国・植民地への輸入はフランスもしくは原産国・製造国に属する船舶で直接行われなければならないことを定め、植民地の確保を図った。これは1651年のイギリスのクロムウェルが出した「航海法」のフランス版であった。フランス革命後のナポレオン政府も保護貿易主義を維持し、イギリス工業生産に打撃を与えようとした。ナポレオンが1806年に発した大陸封鎖令(ベルリン勅令)は正にその延長線上にあった。<『岩波講座世界歴史18』1970 吉田静一「大陸体制の形成と展開」p.214>

1860年の英仏通商条約へ

 フランスが自由貿易主義を採用することになるのは、19世紀前半の七月王政の時期にフランスの産業革命を促進させた後に成立した、ナポレオン3世第二帝政の時代であり、1860年に新たな英仏通商条約を締結してからである。これはフランスが保護貿易から自由貿易に転じ、ナポレオン3世がイギリスの自由貿易を受け入れたものであり、フランス資本主義経済の確立を意味していた。
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