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ロンドン万国博覧会

1851年、ヴィクトリア朝のロンドンで開催された世界最初の万国博覧会。総ガラス張りの水晶宮など、当時の技術を動員して会場を建造し、多くの来場者を迎えて大成功し、ヴィクトリア女王とその夫アルバートが上がるとともにイギリス帝国の国力をしめすこととなった。後にパリなどで開催され、現在も開催される万博の手本となった。

 1851年5月1日、イギリスの首都ロンドンで世界最初の万国博覧会が開催された。イギリスのヴィクトリア朝の繁栄を象徴する祭典であった。ヴィクトリア女王の夫アルバートを総裁としてイギリスの国家的事業として準備され、その象徴は全館ガラス張りの水晶宮(クリスタル・パレス)と名づけられたパビリオンであった。5月から10月までの会期に800万を動員、イギリス全土から団体割引の切符で鉄道を利用し見物客が集まった。先進工業国としてのイギリスの威信を世界に示したものとなった。 → イギリス(7)

アルバート公の努力

 第1回のロンドン万国博覧会のいっさいを取り仕切ったのは、ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公であった。アルバート公はドイツ人であったためもあって、国民には今ひとつ人気がなく、政府の側からの信用もいまいちという状況だった。なんとかイギリス王宮で自分の位置を確保したいと考えていたアルバート公は、博覧会をロンドンで開催するというアイディアを思いつき、全力をあげて取り組んだ。しかし、準備が本格的に始まった1850年の時点では、イギリスの世論は総じて冷淡だった。そんな中、アルバート公は前代未聞の総ガラス張りの大会場を建設しようと考え、ヘンリ・コールやジョセフ・パクストンといった稀代の才人といわれる技術者の協力を仰ぎ、準備を進めた。建設が始まってもこの奇抜な発想には莫大な費用がかかることや、予定地のハイドパークの自然が破壊されるという環境や安全面での不安などから根強い反対論があり、新聞や雑誌はさかんに非難を浴びせていた。
 1851年に入り、ハイドパーク二個のガラスの建造物が姿をあらわすと、人びとは驚き、それまでの世論が嘘であったように、驚嘆の声に代わった。5月1日、開会式を迎えた万博の本会場となったこのガラスの殿堂は、全長563m、幅124mの巨大な温室を模したもので、29万3655枚のガラスで覆われた壮麗なもので、いつしか「水晶宮」クリスタル・パレスと呼ばれるようになった。<君塚直隆『ヴィクトリア女王』2007 中公新書 p.55-56> → ロンドン万国博の成功を参照。
 その成功はイギリス帝国の国力を世界に示すことになり、アルバート公の人気、ヴィクトリア女王への好感も高まった。同時にそのロンドン万博の前後の、1840年のアヘン戦争、1857年のインド大反乱の鎮圧などの植民地支配がイギリス帝国の繁栄を支えていた。

ロンドン万博1851
1851年 ロンドン万国博覧会 クリスタル・パレス

Source: Wikimedia Commons (Public Domain)

クリスタルパレス
クリスタルパレスの内部 1851年

Source: Wikimedia Commons (Public Domain)

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 中央に大噴水が水を噴き上げ、その奥にはハイドパークにもともとあったニレの大木がそのまま活かされている。博覧会の出品者・団体は1万5千、持ち込まれた展示品は10万点に上った。
 万博の純益金の一部は、サウス・ケンジントンの土地購入に充てられ、やがてこの地に大英博物館の自然史部門、ヴィクトリア&アルバート博物館、科学博物館、ロイヤル・アルバート・ホール、現在のロンドン大学の一部の諸施設などが建設されることになる。なお、水晶宮は1854年にテムズ川南のシドナムに移されたが、1936年の火災で焼失してしまった。<『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』世界の歴史22 中央公論新社 p.412-413>
 この1851年にはトマス=クックが旅行社を創設し、ロイターがロンドンにロイター通信を創業、パックス=ブリタニカを背景に、イギリスで始まった近代文明が世界に広がり始めた年でもあった。
 ロンドンの第1回万国博覧会の成功に刺激を受けたフランス第二帝政のナポレオン3世は、1855年にパリ万国博覧会を開催した。